肩に置いた手に力がこもったのだろう。
クラウドが気を肩に逸らそうとしたのを、セフィロスは許さなかった。
「俺は足りぬと申すのだな」
いぶかしげに金色の眉が顰められる。
「俺はお前と話すのに、どこが足りぬのだ!」
「それは学べば足りるようになるのか」
――教えてくれ。
「何を学べば良いのだ」
「クラウド――俺は俺が足りぬものを、お前から学びたい」
「――王子…!?」
セフィロスのいきなりの言動に、クラウドはあからさまに怪訝な表情となった。
初めてクラウドが晒す、感情が浮かび上がった表情に、セフィロスは惹きつけられてしまう。
人形めいた硬質な顔立ちが、途方に暮れたようなあどけない表情へと一気に変化するのを目の当たりにするのは、とても心地よい。
ここでセフィロスは手を緩めなかった。
もう一方の手も肩に置き、両肩を揺するようにして、更に言葉を重ねていく。
「俺を学ばせてくれ」
「俺の虚無を払ってくれ」
――その方法を、クラウドならば絶対に知っているに違いない。
セフィロスの剣幕に押されたのか、クラウドは小さく頷いた。
「わ、わかった――」
元よりルーファウスから依頼を受けているのだ。
クラウドとて簡単にセフィロスとの邂逅を放棄するつもりはない。
ただこのように虚無だらけの男が、いかにヒラニヤ・ガルバであろうとも仏陀になるのは有り得ないと感じ、もう暫く時を置いてから再び夢に会いにくれば良いと判断しただけだったのだ。
人ではない寿命のないクラウドには、時間の流れはあまり意味を成さない。
時間が経つという残酷さも、時が流れ自然に物事が解きほぐされていくという優しさも、クラウドには縁のないこと。
セフィロス自身が会いたいというのならば、クラウドに異存はない。
「わかった。お前が学べるように夢に通ってこよう」
「約定とするぞ。違えるな」
セフィロスは尚も言い募る。
どこか必死ともとれる行動の真意は判じかねるが、それでもルーファウスの言うとおり、この男は仏陀となるやも知れぬとクラウドは本能的に察知する。
セフィロスの一言一言はとても重い。深く心の奥まで染み入ってくる。
それがどんなに詰まらないものであろうと、他者を従わせてしまう品格がある。
セフィロスが殊更威圧的というのではない。彼はむしろ感情の見えない超然とした平坦さだ。
それでも非天であり、大梵天ルーファウスを前にしても動じなかったクラウドが、たかが人でしかないセフィロスの言葉を当たり前のように受け入れるべきだと、高い優先順位を自然に与えているのだ。
――この男、確かに王の器だ。
必ずしも人の世の王と同じ意味ではないが、この男ならば天輪王にも聖王にも仏陀にもなれるだろう。
さすがはヒラニヤ・ガルバ。生まれ持った器がまるで違う。
人でしかないセフィロスの負担を考慮しつつ、翌日からクラウドは定期的にセフィロスの夢に通うことにした。
釈迦族の王子であるセフィロスは、確かに高い教養を持っていたが、所詮自国から一歩たりとも足を踏み出した経験のない中での、それだけのこと。
知識は持っていても机上の空論でしかなく、実体験は不足している。
セフィロスは当然のようにクラウドに階級(ジャーティ)を問うた。
セフィロスの常識では、人は階級と生まれ(ヴアルナ)によって、生きていく全てが決まる。
僧侶(バラモン)を頂点として、武士(クシャトリア)、平民(ヴァイシャ)、そして奴隷(シュードラ)と厳格な階級が定められているのだ。
そしてこの階級ピラミッドの底辺に非民(バリヤ)がある。
せいぜいこの階級と無関係でいられるのは、全てを捨て去った沙門くらいであろう。
釈迦国王子セフィロスは士族である。階級は上から二つ目だ。
士族でも上位となる王子であるセフィロスは、大勢の召使いに囲まれて、何も困ることも不足を感じることもなく、醜いものや汚いものとは切り離され満たされた生活にどっぷりと浸っている。
だがそれは武士という階級と、小国ながら王子という生まれがあってこそ。
そのセフィロスから階級を問われ、クラウドは微苦笑で応じた。
「階級は人が作ったものでしかない」
それは人でない者からすれば、取るに足らない些細で詰まらないものだ。
「階級がないのか?」
「全くないというのではないが、人のようなものではない」
「王子よ――オレは非天だ」
「非天…?」
耳慣れない言葉に、セフィロスの好奇心が刺激される。
知らないことを恥ずかしがるような無知を、セフィロスは持ち合わせていない。
「天部、つまりオレは天族ではない」
「オレは阿修羅族の王。人が悪神と呼ぶ一族の王だ」
悪神――自らをそうだと言われても、セフィロスはどうしても信じられない。
見た目もそうだが、こうして接してみても、クラウドに邪があるようには感じられないからだ。
少なくとも、セフィロスが連想する悪とは、クラウドはかけ離れている。
階級制度に厳しく縛られる世界に育ってきたセフィロスにとって、属する階級はイコールでその者の人品そのものであった。
つまり僧侶はやはり僧侶である。
武士は所作も考え方も、やはり武士でしかなく。
平民は上の階級におもねる者であり。
奴隷はいつも他に階級の顔色を窺いながら、卑屈に生きているだけの一種の家畜でしかなかった。
非人に至っては、セフィロスは遠目ですらも会ったこともない。
それだけ隔てられた、低い存在であったのだ。
クラウドは己を悪神だという。非天であり天族ではないのだと言う。
だが彼はどう考えても悪神でもなければ、低い存在でもない。
クラウドは階級などとは無縁なのだ。
生まれというものとも、無縁なのだ。
困惑したままでクラウドを凝視するセフィロスに、クラウドはあっさりと、
「生まれなど自分では決められぬ」
「肝心なのは、生まれた階級ではなく、その先――」
「どうやって生きるかというところなのだろうな」
この言葉はセフィロスの価値観を根底から覆すものである。
階級はとても大きなものだ。例えば士族がどれだけ力を持とうとも、僧侶には一目置かねばならない。
大国の王であったとしても、僧侶を蔑ろには出来ないのだ。
平民の長者もそうだ。いくら金を持っていても階級は買えない。あくまでも平民は平民でしかなく、僧侶と武士の下に甘んじなければならない。
奴隷と非人は問題外。彼らは生涯家畜以下で過ごすのを定められている。
天と地があり、太陽が出てそして沈んでいく。
雲のない夜には天空に月が出ている。
そのくらい、セフィロスにとって階級とは当然の事象のひとつなのに、クラウドは真っ向からこの世界を否定しているのだ。
「…階級とはなんなのだ?」
困惑したセフィロスの呟きに、クラウドは簡単に答える。
階級に縛られていないクラウドにとって、セフィロスの困惑は理解できない。
「あれは人が作ったものだ。天が作ったものではない」
よいか、
「国はたくさんある」
「その国ごとに法というものが定められているだろう」
「…ああ、」
「つまり法は国によって違っている」
「お前の国では罪に問われることでも、別の国に行けば問題ないものもある」
「お前たちの階級とは、そんなものと同じでしかない」
わかるか?と重ねられ、セフィロスは絶句した。
クラウドの説明は解る。確かにその通りだ。
だが階級というものの存在が大きく重すぎて、セフィロスは簡単には納得できない。
そんなセフィロスの心中を解っているのだろう。クラウドは更に言い募ることもせずに、話を進めていく。
「王子よ、お前は士族だ」
「だが、士族であるお前もいつかは死ぬ」
「僧侶もそうだ。彼らもいつかは死ぬ」
「もしかしたら今すぐに死ぬやもしれぬ」
「数十年後、歳を充分にとってから死ぬやもしれぬ」
「それでも人は死ぬ」
「平民も奴隷も非人も、皆死ぬ」
「階級関係なく、皆死ぬのだ」
「死に違いはない。せいぜい葬儀が盛大になるか、骸をうち捨てられるか、それくらいの差しかない」
その通りだった。
現にセフィロスの母摩耶は、セフィロスを産み落としてすぐに死んだ。
まだ若く美しい人であったそうだが、それでも死んだ。
王の正妃であったというのに、世継ぎを生んだというのに、それでも彼女は死んでしまった。
そして命に替えて産み落とした息子に、顔も覚えられていない。
王の正妃でありながら、彼女はある意味不幸なのかもしれない。
「人だけではないぞ」
「動物もそうだ。必ず死ぬ」
「人に食われるか、病で死ぬかはそれぞれだが、死ぬには変わりない」
「小さな虫も死ぬ」
「植物とてそうだ」
「木も草も花も、皆最後は死ぬ」
「生と死だけは、この世に生きとし生けるもの全て平等に訪れる荘厳な儀式だ」
そこに違いはない。
違いがあるとすれば、せいぜい葬式に使われる薪の多さくらいでしかないが、死んだ以上其の先自分がどのように葬られるかなど、所詮生者の都合。
すでに死んでしまっている者には関係ない。
悪神クラウドの言葉はセフィロスに響く。
「王子よ――」
「人は虫ではない」
「牛でも豚でもない」
「果実でもなければ花でもない」
「それでも同じように生きて死ぬ」
「それは、何故だと思う?」
「――…それは、生きているからだ」
「どれも皆、生き物だからだ」
セフィロスの答えをクラウドは是とも否とも言わない。
「オレは非天だ」
「オレには人のような寿命はない」
「だが死ぬ。病ではなくとも、大きな傷を受ければ死ぬのだ」
「天部もそうだ。奴等にも死はある」
――解るか?王子。
「天――つまり神も死ぬのだ」
「何者であろうとも、死とは無縁ではいられない」
虫や動物や植物や人よりは、死と遠いところにあっても、それでも死はある。
「王子。生き物だけではないぞ――いつかはこの世も死ぬ」
この世の死。世界の滅。それは一切の滅を意味する。
「おもしろいものを見せてやろう」
クラウドは左手の人差し指と中指を揃えると、セフィロスの額に置く。
腕釧が揺れてカランと澄んだ音を立てた。
――この腕釧は…
あの時拾って身につけている腕釧と同じ物だ。
――そうか。クラウドの腕釧だったんだな。
黄金の細い腕釧。きっとクラウドがセフィロスに与えたのだろう。
カラン。クラウドのものと同じ音を、セフィロスの手首にある腕釧が立てた。
腕釧の澄んだ音が余韻を響かせる時、セフィロスの目の前に別の景色が現れる。
いつもの乳白色の霞はかき消えて、セフィロスは大きく壮麗な寺院の前にたっていた。
セフィロスの目にしたことのない寺院は、石造りで細部まで緻密な彫り物が施されている。
何層にも重なる塔の頭頂部は、長身のセフィロスが仰け反って眺めても、うっすらとシルエットになっているだけ。
驚き呆然とするセフィロスを後目に、クラウドは寺院の奥へと進んでいく。
慌ててセフィロスも後を追いかけた。
「クラウド――ここはどこだ」
「ベナレス…と言ってもお前はわからんな。お前達が言うところのヴァナラシにある、世界の中心に通じる寺院だ」
セフィロスは頭にある知識の地図を詳細してみる。
ヴァナラシとは大河のほとりにある聖地だ。
そこに神の住みたもう兜率天に通じる寺院があるのだとどこかで聞いたことがあった。
その寺院は天地創造の時に神が降臨されたとか。
釈迦族の建てる寺院とはどこか違う内部を、クラウドは奥へ更に奥へと進んでいく。
人影はどこにもない。寺院につきものである祈りを捧げる人々もいなければ、寺院に生きる僧侶の姿もない。
どこまでも静謐で時間そのものが止まっているようだ。
寺院の一番奥で、クラウドは止まった。
だが目的地はここではない。
「王子――潜るぞ」
何?――と意味を尋ねようとするよりも前に、セフィロスの身体が沈んでいく。
硬い大理石の床石に沈み、床石を通り抜け地面へと。
それだけでは終わらない。地面をも通り抜けて岩盤へと。岩盤も通り抜けて、地球の中心に至る巨大な熱量の塊であるマントルへと。
痛みを伴う眩しい熱に、セフィロスは顔を両手で覆ってしまう。
己の身体が魂ごと焼き切れると覚悟した時、クラウドの声がする。
「目を開けてみろ」
ゆっくりと目を開けるとそこは神秘の異界であった。
果ては見えない、海か湖か、とにかく広大な水だけの世界が途方もなく広がっている。
生きているものの気配は感じ取れなかった。
その世界の中心であろう場所に、巨大な三本の柱がそびえている。
柱は見る限り三本とも同じ物だ。金剛石だろうか。磨き抜かれた輝きを放つ柱は、同じ大きさのものが、同じ間隔でならんでいる。
ただ同じでないのは、柱に突き刺さっている純金であろう巨大な円盤だ。
巨大な円盤には中央に孔が空いており、金剛石の柱に突き刺さるようになっている。
もっとよく観察してみると円盤は同じものではなく、大きいものもあれば小さな大きさのものもあり、同じ大きさのものはないようであった。
円盤は三本の柱にそれぞれ別の数だけ刺さっているが、どれもより大きな円盤が下に、それよりも小さな円盤が上に置かれてある。
「ほら、動くぞ」
中央の柱に刺さっていた円盤が動いていく。
上へと持ち上がり中央の柱から抜け出て、セフィロスから向かって右の柱へと移動していき、そして自ら刺さっていった。
「…!」
不可思議な光景にセフィロスは言葉も出ない。
「これはブラフマーの塔と呼ばれているものだ」
ブラフマーとはヒンドゥ三神の最高神。破壊と創造の神。
「王子が住む世界の創造神がこれを作ったのだ」
創造神はこの三本の円柱の一番左端の一本に64枚もの黄金の円盤を差し込んだ。
円盤の大きさはどれも全て違っている。
一番大きなものが下。順序良く重ねられていき、一番小さなものが上に置かれ、これを法則とした。
「これは時を計るものだ」
「円盤は常に大きなものの上に小さなものを重ねることになっている」
「必ず一度に一枚づつ動かさなければならない」
これはパズルだ。気の遠くなるようなパズル。
「創造神が一番左端の円柱に差し込んだ64枚の円盤を、三本の柱を使い法則に従って移動させ、円盤の全てを右端の円柱に移し替えられたその時――」
「――この世は滅する」
つまりこれは、滅亡への時を計る時計。
※宗教的表現や神様仏様が登場していますが、あくまで物語ですのでそのあたりよろしくお願いします。