風輪、水輪、金輪が支える世界には、塩水の海に浮かぶ四つの島がある。
須弥山を囲むこの四つの島は、須弥の四州と呼ばれていた。
この須弥の四州を守護するのは、神王帝釈天ザックスの配下である四天王である。
半月形をしている東の島は東勝身州と呼ばれ、持国天が守護している。
南にある三角形に近い台形の島は、南譫部州と呼ばれており、ここは増長天の守護がある。
円形の西の島は西牛貨州。ここには広目天が。
北方にある正方形の島は、北倶廬州。最後の四天王多聞天がここを守護している。
この四州で人界があるのは南の南譫部州。
まるでこの大陸の背骨であるかのように伸びているヒマヴァットの麓に、仏陀となるべく宿命づけられているヒラニヤ・ガルバはいた。
宮殿からはいつも同じ光景が見える。
それは真夏であろうと絶対に溶けることのない雪をたたえた偉大なる山脈、ヒマヴァットだ。
ゆったりと身体を起こすと、すぐ側にいる女が剥き出しの胸にそっともたれかかってきた。
さっきまで交わっていた女だ。
だが女の名は知らない。生まれも育ちも、その顔立ちでさえも、どうでもいいこと。
セフィロスが一夜の女に求めるモノは、ただの暇つぶしでしかない。
それ以上でもそれ以下でもなく、正妃をすでに娶り後継の子も成しているセフィロスにとっては、この交わりに子作りの意味さえないのだ。
セフィロスは美しい男である。どれ程の美姫でさえも、セフィロスには敵うまい。
癖のない長い髪は一本一本丁寧に紡がれた、絹のようだ。
サラリと滑っていき、余韻さえ残る。
彫りの深い整った顔立ち。あまりにも端正すぎて欠点がない。却ってその美貌は、セフィロスから人が当たり前に持っている血肉の暖かさを奪っていた。
敢えて言えば、それが欠点というものか。
女以上の美しい顔立ちをしているものの、セフィロスの美貌はあくまでも男のものだ。
間違っても女には見えない。
ズバ抜けて高い身長。広い肩幅にしっかりとついた筋肉は、研ぎ澄まされている。
引き締まった腰から伸びる左右の脚は、見事なバランスを保ち、長さはあってもいびつではない。
比類なき美貌といい、その美しくも逞しい身体といい、まるで彼自身が一振りの名刀のようだ。
ヒマヴァット山脈を西の麓から仰ぎ見る国、カピラヴァスツ。
ここ釈迦族中心の国の世継ぎ王子として生まれてきたセフィロスは、生まれながらにして全てに満たされた完璧な存在である。
生まれてすぐ母は亡くなったものの、母の妹、つまり叔母によって大切に育てられたセフィロスは、その生を受ける前から特別であった。
セフィロスの母、摩耶は孕んでいる最中、とても不思議な夢を見たのだと言う。
それは六本の牙を持つ白象が、脇から胎内に入っていくものであった。
釈迦族お抱えの高名なバラモンに訊ねると、それは紛れもない吉夢であると宣言した。
(王妃様に宿る御子は、必ずや類い希なる宿命を得られるのでしょう)
このバラモンの予言は早くも出産時に証明される。
いよいよ迫ってくるお産を控え、実家に戻ろうとしてういたその道中、摩耶は休憩に立ち寄ったルンビニの花園で急に産気づく。
そのまま摩耶は子供を産道からではなく、右脇から産み落としたのだ。
産まれたばかりの赤子は、すくっと立ちあがると七歩歩き声を発したのだと言う。
(天上天下唯我独尊)
右手で天を。左手で地を指しながら。
――この世で私はもっとも貴い。何故ならば私という存在は一人しかいないからだ。――
この世に生を受けた直後でありながら、セフィロスは森羅万象に向かって高らかにこう宣言したのだという。
もっともそのことをセフィロスは覚えていないが。
こうして異質な誕生となったセフィロスだが、父浄飯王の期待は大きかった。
その期待の理由は、単に世継ぎの王子が無事に生まれてきてくれたという、王として定めづけられていた血の後継を得て果たせたというだけの歓びだけではない。
赤子のセフィロスが城に戻った時、高名な仙人がわざわざやってきたのだという。
アシタというヒマヴァットで修行しているという高名なる聖仙であった。
父王が呼びつけたのではない。彼は自らこの世に誕生した赤ん坊でしかないセフィロスに、自ら会いにやってきたのだ。
その当時のセフィロスの育児には、大きな問題があった。
頼りない赤子の身でありながら、セフィロスは決して女の乳を飲もうとはしなかったのだ。
乳首を口に含もうともしない。ムリに飲ませても吐き出してしまう。
ただ果汁だけは好んでいるようで、結果乳の代わりに果汁を与えていたのだ。
乳母や側仕えの者は、乳を拒否するセフィロスが赤子としては異常すぎて、ほとほと困り果てていたのだが、不思議と父王はそうではなかった。
父王はむしろセフィロスが普通の赤子でないことに、満足しているようだった。
そんな時にやってきた聖仙は、赤子であるセフィロスを前に、一目見て感動の涙を流す。
驚く周囲を前に聖仙はこう告げる。
「これは素晴らしく貴い方だ」
「この世にあり剣を取れば、長じて地を支配する天輪王となられるであろう」
「出家の道をとられれば、この世を救う覚者、聖王となられるであろう」
父王の歓びは大きなものであった。
彼は驚喜し、セフィロスを天輪王とすることに決めたのだ。
父王の期待を一身に集めたセフィロスは、雨期と乾期それぞれ別に静養出来る二つの専用の離宮を与えられ、文武共に最高の教育を施される。
セフィロスは賢く美しく、そして武にも優れた立派な王子に成長。
16の歳に妻を娶った。
傍目から見れば、どこも欠けたるところがないように思えるセフィロスだが、その実彼には払っても払いきれない深い懊悩がある。
それは底知れぬ――虚無。
才能に秀で何物にも恵まれすぎてきたセフィロスは、自分で何かを成したいとか、何かが欲しいとか、そんな些細な願望さえ持つこともなく、全てが勝手に叶えられてきたのだ。
いつでも何の不足もないのが常のこと。
それが物であるのならばまだ良かった。
あらゆる武術に関しても。また知識や知恵に関しても。
またどれだけ努力しても得られないという限界の持つ悔しさにしても。
そのどれすらもセフィロスにはなかったのだ。
セフィロスは何でも最初から上手く出来た。そして完璧にやり遂げてしまう。
努力などしたことどころか、考えたことすらもなく。
彼は手を伸ばして何かを欲するという経験がない。
手をだすだけで、物も金も名誉も才能でさえも何もかもが、セフィロスの掌に簡単に乗ってしまう。
まるで神のようだと讃えられても、セフィロスは何も感じない。
何故ならば何でも出来るのが持てるのが当たり前の状態なのだから。
そうしてやってくるのは虚無。
そう、セフィロスは生きることに退屈しきっていたのだ。
正妃を娶り後継たる男子を成してからは尚更のこと、セフィロスは退屈で退屈でたまらない。
生きていることに意味どころか、楽しくもないのだ。
虚しくて詰まらなくて仕方がない。
美しい王子の寵愛を得たいのか、それとも単にセフィロスに恋したのか。
一夜の女は己の豊満な肢体をセフィロスに押しつけてくる。
大きく膨らんだ乳房が、硬い胸板に押しつけられて形を変えた。
男の欲望を煽る手管さえも、セフィロスに何の感慨もない。
すでに女との閨房でさえ、セフィロスにとっては暇つぶしにもならないのだから。
強引に押しつけてくる肌の感触がうるさくて、セフィロスは軽く腕を払う。
暴力を振るったのではないが、あまりにも素っ気ないその仕草に、女の動きは止まった。
宝玉のような翠の瞳は、女を見ず、ずっと遠くにある雪山へと注がれている。
動きが止まった女を無視して、セフィロスは寝台から起きあがった。
いや、無視したのではない。腕を払った時点で、すでに女の存在はセフィロスから抹消されただけ。
全裸で窓際へと向かうセフィロスに、召使いがススっと近寄ってくる。
王子の為に丹誠込めて織られた絹を両腕高く捧げ、召使いは這い蹲った。
この絹一枚だけでも、カースト底辺にいる者ならば、家族が一年は豊かに暮らしていけるだろう。
それ程までに王子は大切にされているのだ。
だがセフィロスはそのような価値には、関心がない。何故ならばそれが当然だから。
彼は自分の有する美貌にも、無関心なのだ。
物心つくより前から、多くの召使いに傅かれてきたセフィロスは、常識としての羞恥心というものがない。自分の裸体を見られても、どうとも感じないのだ。無造作に絹を取ると腰に巻き付ける。
その間に他の召使いが、寝台から女を引きずり下ろし始めた。
微々たる抵抗をする女が起こす僅かに争う喧噪でさえも、すでにセフィロスの耳には届いていない。
王子はずっと雪山を見つめている。
ヒマヴァットは天高く頂きは雲海の彼方にあり、肉眼で捉えることは出来ない。
このヒマヴァットは、セフィロスが生まれる遙かに昔から、ずっとこうしてそびえ立っているのである。
意志の疎通が出来るのならば、セフィロスはこの雄大なる雪山と言葉が交わしてみたかった。
――何故に、人は生きるのだ。
こんな退屈な人生というものを、どうやらセフィロス以外の者は、それなりに充実させて送っているらしい。
セフィロスがこのことに気が付いたのは、自分の成長に手放しで歓ぶ父王を見てからだった。
釈迦族の国カピラヴァスツは、決して大国ではない。
両隣を二大強国コーサラとマガタとに挟まれており、いつ何時攻め入ってこられるか不安定な状況にある。
父王はこの状況を理解していながら、それでもだからこそセフィロスの成長に笑う。
セフィロスの為に金を注ぎ込んでくる。
セフィロスに贅を尽くしても、カピラヴァスツが強国になるというのでもなく、またコーサラとマガタからの危機が無くなるというのでもないのに。
――不思議だ…
――何故こんなに歓ぶのだ。
疑問を秘めつつ周囲を観察してみると、身分のあるバラモンやクシャトリア達ばかりではなく、召使い達カーストの低い者でさえも、苦しいならば苦しいなりに、辛いのならば辛いなりに、生きるという現実を充実させて生きているではないか。
つまり――セフィロスだけなのだ。
これ程までに生に対して執着していないのは。
そうだと理解した瞬間から、セフィロスは虚無の虜となったまま。
雪山を見上げていたセフィロスが、暫くしてから振り向くと、すでに女は影も形もなくなっており、寝台はきれいに清められていた。女の痕跡すらなくなっている。
身体が適度な睡眠を求め始めていることに気が付いたセフィロスは、清潔な寝台に潜り込もうと足を踏み出した。
カラン――足が何かを蹴った。
視線を向けてみるとそれは細い黄金の腕釧ではないか。
セフィロスの視界に入らないようにと注意深く控えていた召使いが、慌てて飛んできて、セフィロスよりも早く腕釧を拾い上げようとする。
が、身振りでそれを止めさせると、セフィロスは自ら屈んで腕釧を手に取る。
一見シンプルにうつるが、こうして手にとって観察してみると、この腕釧がかなり端正に作られていることがわかる。
透かし彫りとなっている部分が波のようにうねり、腕釧の周囲を一周していた。
女が身につける意匠ではない。これは男のものだ。
ただし男がつけるにしては、腕釧のサイズは細かったが。
当然、セフィロスのものでもない。
芸術や美術にも関心がなく、無論装飾品にも価値など感じなかったセフィロスだが、不思議とこの腕釧には興味を惹かれる。
このまま手放してしまうには、惜しいような気がする。
セフィロスは黄金の腕釧を己の手首に通す。腕釧のサイズが細い為、通らないかとも過ぎったが、入れてみると素直にセフィロスの手首に収まった。
ただしやはりあまりゆとりはなく、手首にピッタリと寄り添うようだ。
自分の手首に見慣れない上にサイズの合わない腕釧が填っている。この様子は何故かしらセフィロスに満足感を与えるのだ。
指先で叩くと、腕釧はカランと澄んだ小さな音を立てる。
久しぶりに満足した気持ちを保ちながら、セフィロスは腕釧を付けたまま、寝台に潜った。
ふと誰かが呼ぶ声がする――ような気がした。
セフィロスは目を開ける。
目はしっかりと開いたが、見渡せる空間にはまるで靄が掛かっているようだ。
はっきりとした形になるものは、何も見えない。
おまけに天と地と、つまり上下感覚が感じられないのだ。
今自分が立っている地面の感覚さえない。浮いているのか、それともどこかしっかりとした土地の上に立っているのか。
高い場所にいるのか。低い所にいるのか。
三半規管は狂っており、それすらも不明だ。
乳白色の靄ばかりの空間で、セフィロスはただ立っているのだ。
――ここは?
――俺は夢を見ているのか…
足を一歩、無意識の儘に踏み出そうとした時、カラン、手首の腕釧が音を立てる。
それは小さな音であったのにも関わらず、靄の中に響き渡った。
すると、世界が変わった。
不意にセフィロスの目の前に人が現れる。
上からやってきたのか。下からやってきたのか。前方か、後方か、それとももっと別の場所からやってきたのか。
目の前に現れたのだというのに、セフィロスは何も見なかった。
いきなり彼が出現したのだとしか、セフィロスには思えない。
彼――そう現れた人物は男だった。しかもかなり年若い男だ。大人になりきれていない柔らかなラインは少年期特有のものだった。
少なくともセフィロスよりは10は下だろう。
見慣れない金色の髪と、これまた見たことのない青い瞳と透き通るような肌と。
繊細さと硬質さがアンバランスに同居した容姿は、セフィロスの周りにはいなかった人種だった。
セフィロスよりも小柄な少年は、その青い瞳をひたりと向けてくる。
そうやって少年はじっとセフィロスを観察しているようだ。
やがて、少年の口が開く。薄桃色の唇は処女のように清浄に映るが、出てきたのは少年の甲高いものではなく、しっかりと落ち着いた声であった。
どうやら見た目よりは年上らしい。
「お前がセフィロスか――?」
「釈迦族の王子。父王は浄飯王。母は正妃摩耶」
少年、いや、彼は非人間的なほどに美麗すぎるセフィロスを目の当たりにしても、いささかの心の動きもないようだ。
淡々と落ち着いた音声で問いかけてくる。
セフィロスは無論彼とは初対面であるが、王子という育ち故に、これまでも他者が一方的に自分の存在を認知しているというのはよくあることだった。
だからいきなりこう問われても、疑問に感じることはない。
王子らしく鷹揚に頷いてみせると、
「お前は何者だ?」
セフィロスからも問いただす。
彼は見たところ釈迦族の者ではない。
近隣諸国の者でもない。
目と髪の色は混血もある為一概には言えないが、何より生まれてから一度も強い陽差しに晒されたことのないような肌は、あまりにも違いすぎていた。
少なくとも彼は強い陽差しのない国の者としか考えられないが――それにしても何故こんな所にいて、セフィロスの目の前にいるのか、胸騒ぎがしてならない。
「オレはクラウド――」
「クラウド…異国人か?」
彼、クラウドは奔放に跳ねた短い髪を軽く揺らす。
「そうだな…お前からすれば、オレは異国人になる」
含みがある答えであったが、セフィロスは詳しくは聞かなかった。
何となくではあるが、聞いても解らないだろうとの予感がしたのだ。
少なくとも今は、彼は異国人である、とこれだけで充分だろう。
セフィロスは周囲をゆっくりと見渡してから、クラウドと名乗った異国人を見つめた。
「ここはどこだ」
「夢だ」
「夢――?」
ならば、
「これはただの夢なのか?」
「クラウド。お前とこうして対面しているのも、夢の中の出来事なのか…」
それにしてはやけにリアルではないのか。
「…信じられん」
セフィロスは長い腕を伸ばすと、クラウドの肩に触れる。
一見華奢のように見えるが、こうして触れてみるとクラウドの身体は相当鍛錬されているのだと解った。
張りつめた筋肉がしなやかに伝わってくる。
つまりセフィロスは触感がわかるのだ。夢だというのに。
「本当に夢なのか?」
「そうだ。これは夢だ――」
だが、
「お前がこれまで見てきた夢とは違っているがな」
「…?」
「これはお前が見ている夢ではない」
「オレがお前の夢を利用して作った世界だ」
クラウドの語る意味が正確に理解出来たのではない。
ただこの夢はクラウドが作ったものなのだと、それだけ朧気に理解する。
だがそうならば、次の疑問が湧いてくるのは必定。
「何故そんなことをした?」
クラウドの答えは簡潔であった。
「お前に会う為に」
「俺に――?」
「もちろん、お前の顔を見るだけで良いというものではないがな」
それはつまり、
「俺に何か用があるのだな」
そうだ――とクラウドは頷きながら、未だ自分の肩に置かれたままとなっている、セフィロスの大きな手に自分のを重ねた。
「そうだ――オレはお前と話しをしにやってきたのだが――」
「今のままでは、話にもならんようだ」
「!?」
話にならないとは、どういう意味だ?
口を開こうとするセフィロスを、クラウドは微苦笑で押しとどめる。
「虚無が大きすぎる」
――王子よ。
「お前は自分が何者であるのか、まだ全く理解していないのだ」
「理解出来ていない相手とは、話にもなるまい」
それはある意味、セフィロスを否定する言葉であった。
今のお前では話すらも出来ない。
クラウドははっきりこうセフィロスに突き付けている。
これまで天才だと貴い王子であると、容姿から才能まで常に崇め奉られてきたセフィロスにとって、己の全否定に遭遇するのは初めての経験であった。
しかもクラウドに悪意などない。
彼はむしろ淡々と事実を述べているに過ぎないのだ。
――クラウド…
事実を現実だとあっさりと言ってのける、小柄な少年の形をした者の内側に潜む清冽さに、セフィロスは目眩すら覚えた。
この目眩の根源は――感動だ。
セフィロスはクラウドの、己を容赦なく切って捨てた言葉に、感動している。
※宗教的表現や神様仏様が登場していますが、あくまで物語ですのでそのあたりよろしくお願いします。