己の鳥獣が初対面の、しかも敵対している非天の足下に蹲るのを、ルーファウスは怒りではなく余裕をもって眺めていた。
阿修羅族の王であるのにも関わらず、繊細な容姿は、生き物が一番危うくだからこそ一番研ぎ澄まされた時をそのまま象ったようだ。
彼よりも美しい天部はたくさんいる。
もっと容姿の整った、そして己の容姿を保つのに並々ならぬ努力をする者たちも、ルーファウスは数多く会ってきた。
今目の前にいる悪神とされる非天は、ルーファウスがこれまで出会ったども者たちよりも、全くの未知である。
鵞鳥がどうして阿修羅王の元に自ら近づき、啼いて羽根を広げて見せて、アピールしたのか、その理由をルーファウスは理解していたのだ。
魅力ある未知に惹かれるのは、賢い者の本質。
この強い好奇心はそのうちに願望へと変わっていくだろう。
鵞鳥たちは阿修羅王という未知に興味を抱き、賢いがゆえに好奇心をそそられた。
だからこそ側に行き関心を求めてみせたのだ。
クラウドの反応に、鵞鳥たちの関心は満足したのだろう。
よって好奇心は願望へと姿を変え、阿修羅王の足下に座すこととなったのだ。
鵞鳥の想いは手に取るように解る。
何故ならば――ルーファウス自身でさえも、この非天に強い好奇心を抱いてしまっているのだから。
それは単に毛色の違う者への、深い意味のない珍しさからきているのかも知れない。
だが、もしかしたらそうではなく、それ以上の意味があるのかも――
なにせ、
――ザックスが進んで連れてきたのだからな。
大梵天ルーファウスは己の対たる武神を侮ってなどいない。
特に本能的な部分。刹那に本質を見極める鋭さについては、密かに一目置いているくらいなのだ。
喰わせ物な対、帝釈天ザックスが自分の様子を窺っているのを黙殺しつつ、ルーファウスは自ら口を開いた。
「――阿修羅王」
クラウドの眼差しが真っ向から向けられる。
生き物を死へと追いやる悪神とされながらも、クラウドに下品な生臭さはない。
なんの感情を表さない青い眼差しは、実に淡々と事実だけを見定めようとしていた。
「阿修羅王よ――お前は何故に私の前にやってきた」
答えはすぐに簡潔に与えられる。
「真理を求めて」
「真理、か――」
ルーファウスが喋るたびに、その貴い身を包む天衣が揺れる。
天衣はそれ自体も淡く発光しており、玻璃の煌めきとの相乗効果により、大梵天を彩る光背のようだ。
だがそれすらもクラウドには特別な感慨を抱かせないらしい。
少年の姿形をした悪神は、淡々とした態度を崩さないままだった。
「阿修羅王に問う」
「お前が求める真理とは何物ぞ」
「普遍の真理――」
「この世にいる生きとし生けるもの皆に共通するもの」
「何故に悪神であるお前がそのような真理を求めるのだ?」
悪神――はっきりとこう名指しされても、クラウドの態度には僅かな変化もない。
さっきからルーファウスが問答という皮を被り行っているのは、阿修羅王に対する挑発である。
元よりどこか他者を見下す傾向にあるルーファウスではあるが、さすがに時と場所と相手はわきまえていた。
だがそれを今は剥き出しにしている。
もっとも阿修羅王は兜率天に攻め込んできた敵なのだから、そのような態度になるのも当然なのかも知れないが、ザックスはかえってそんなルーファウスにある種の違和感を覚えていた。
違和感と言っても悪いものではない。
胸がおかしなほどに高揚する、それは予感であった。
「オレは確かに悪神だ――」
だからこそ、
「オレは真理を求めるのだ」
ほほう。
クラウドの返答にルーファウス形の良い顎を上げた。
「悪神は探求者でもあるというのか」
「さあな。オレをあんたがどう呼ぼうと、興味ないね」
はっきりしているのは、
「オレは阿修羅族の王であるということだ」
「天部ではない。神と呼ばれるものでもない――オレは非天だ」
「天部でなければ真理を求めてはならないのか?」
「人でなければ知りたいと思ってはならないのか?」
もしそうだとするならば、
「そんなモノは、オレの知りたい真理ではない」
この世界の頂点たる兜率天に刃を向けたクラウドに、すでに迷いはない。
暫くの間、沈黙が続く。
ルーファウスとクラウドは真っ向から睨み合ったまま、どちらも退かない。
緊張を破ったのはザックスだった。
「もうイイじゃねえか、ルーファウス」
「余分なカッコつけんのは、いい加減ヤメろよな」
いかに対なる者とはいえ、大梵天に対して酷い物言いだ。
だがこれが相容れない対であるルーファウスとザックスの日常会話である。
それでもやはり粗野な無礼は不愉快なのか、ルーファウスはむっつりと押し黙ってしまう。
代わりに問答ではなく、話を進めるのはザックスの役目となった。
「クラウド――俺ら神王には約束事があるんだ」
それはとても重要で絶対の不文律。
ザックスは気軽に“約束事”などと言ったが、その実はもっと重々しい意味を孕んでいる。
もし、神王がこの不文律を破れば、彼らは消滅してしまうのだから。
「まあその約束事ってのはいくつかあるんだが、そのうちのひとつがコレだ」
「“普遍の真理を解き導け”」
クラウドの表情が動く。
いぶかしげな表情はそれでも清らかだ。
全く――悪神だと誰が言ったのか。クラウドは清らかすぎる。
「…普遍の真理を、解いて導くのか……?」
それはつまり、現在の段階では解くことも導くことも出来ていないというのとなのか?とクラウドがこの疑問を言葉として発する前に、続きを繋いだのはルーファウスだ。
「その通り――」
「つまり我々兜率天はお前が求める“普遍の真理”をまだ手に入れてはいないのだ」
「それ故に我々では、“普遍の真理”がこれなのだとは、明確にして指し示すことは出来ない」
ただし、
「我々は普遍の真理を解く方法も、導く者も知ってはいる」
「それは誰だ!」
「ヒラニヤ・ガルバから生まれた仏陀〜最高位の悟りを開いた者〜と呼ばれる者だよ」
「だが彼はまだこの世にはいない」
「時が満ちれば、人間界に産まれる予定となっている」
「人間界――?仏陀は天部ではないのか!?」
その通り。
「仏陀は天部には現れない」
「非天にも現れない。そして神王たる我々も仏陀とはならない」
兜率天には現れないのだ。
仏陀は仏陀として現れるのではない。
ヒラニヤ・ガルバ〜黄金の胎児〜として現世に出現するものの、人界にとっては単なる人の子として誕生する。
そして彼は長じるに従いヒラニヤ・ガルバとして機能し、己の仏陀たる本性に目覚めていく。
最終的には完璧なる悟りを覚醒し、普遍の真理を森羅万象に示す最高解脱者となる。
そうやっていつか彼は、彼自身の力で兜率天に辿り着くのだ。
「阿修羅王よ、お前が求める答えはその者が与えるであろう」
大梵天でも帝釈天でもなく、ヒラニヤ・ガルバたる仏陀こそがクラウドの求める答えを与えられる唯一なのだ。
「その者の誕生はすぐに迫ってきている」
「阿修羅王よ――答えが知りたいのならば、しばし待つがいい」
求めれば安易に与えられるような、普遍の真理とはそんな簡単なものではないのだ。
いくつもの計画を積み重ね、一見無関係とも言える様々な事象を引き起こす。
そうやって数多なる因果律の糸を寄り合わせていって、やっと世界はヒラニヤ・ガルバを生み出すことが出来、仏陀たる者を得ることが出来る。
ルーファウスはそう言っているのだ。
元よりクラウドとて、求める答えが簡単に手にはいるとは思っていなかった。
天部や非天には人と同じ意味での寿命はない。
死も老いもあるが、寿命と呼ばれる時間の限りはないのだ。よって時間はいくらでもある。
それにクラウドは待つのは嫌いではない。
「――解った。待とう」
素っ気なく返答だけをすると、クラウドは玉座にいるルーファウスに背中を向ける。
要件は終わったのだ。兜率宮にもう用はない。
足下にいた鵞鳥たちが名残惜しそうに啼きながら、羽根を広げて見送る。
ザックスも何か一言、と行動に移すよりも先に、ルーファウスが呼び止めた。
「阿修羅王よ――」
「いちいちまだかまだかと答えを問いにくる度に、兜率天に攻め込まれては私が困る」
「お前は今日より天部となるが良い」
「神籍を用意しておこう」
意外な申し出にクラウドは足を止めて、玉座を振り仰ぐ。
聞いているザックスもかなり驚いてくらいの、それは破格の申し出であった。
阿修羅族は非天だ。そして地上では悪神と呼ばれる存在だ。
本来ならば兜率天に参上するのでさえ、厳しく規制されるのだ。
つまり非天では神王に対面することすら許されていないのが現状。
理と知の神王ルーファウスは、支配する者の傲慢さそのままに、何より規律を重んじる。
こうやって非天と直答するのでさえ、有るはずがない事態なのに――自ら然るべき神籍を与え天部の列に加えるとは。
――ナンか考えてんな。
ザックスのように好悪のみで動くルーファウスではない。
彼だけにしか解らない、きっと何かがあるに違いないが、残念ながらそれが何なのかザックスには不明だ。
――喰えねぇヤツだぜ、大梵天ってのは。
自分の対であるにも関わらず、ザックスはルーファウスの本性を本当のところでは知らない。
ザックスは真一文字に口を引き結ぶと、ルーファウスとクラウド双方を推し量った。
クラウドもクラウドなりに感じ取っているのだろう。
考えの足りない者ならば大喜びで受けるこの申し出にも、心を動かされているような様子はない。
全てを見通す青い瞳で、ルーファウスを見定めようとしている。
鋭いクラウドの眼差しにも、ルーファウスは動じていない。
足をゆっくりと組んで、クラウドに微笑みかけるのだ。
いくら鋭く観察されようとも、豊かに微笑むだけ。そこには些細な感情の片鱗も見いだせない。
これではいつまで経っても拉致が空かないと悟ったのだろう。
「――オレは阿修羅王。非天だ」
この言葉を言い残して、クラウドは今度こそ足を止めることなく、兜率宮から去っていったのだ。
阿修羅王クラウドとの会見を終えたルーファウスは、自らの神王の権利を行使した。
よって阿修羅王は非天でありながら天部の籍を持つという、例外的な存在として兜率天では遇されることとなったのだ。
「クラウド、仏陀として彼の者を必ず覚醒させなければならない」
「普遍の真理の為にも――」
何より、
「末法を迎えるであろう、この世界の為にも」
クラウドに言葉を尽くすルーファウスに、ザックスは嫌な感じがする。
――何か企んでるのか!?
普段のルーファウスは理由などいちいち解かない。
ただ命じるだけ。
己の命令に沿わないであろう者に対しては、そもそも命じることさえしないのだ。
それが今回は明らかにルーファウスの命令を聞かなさそうなクラウドに対して、ここまで言い募ってでも従わせようとしている。
――いや、違うな…
――従わせるっていうんじゃないな。
これは、
――ルーファウスはクラウドに行かせたいんだ。
どこに?――仏陀となるべきヒラニヤ・ガルバの元へ。彼の者の夢の中へと。
ザックスが己の思考の虜になっている間にも、ルーファウスの説得は続く。
クラウドも頑ななままではあるが、徐々にルーファウスの言葉に耳を傾けようとしている。
元よりクラウドはルーファウスの命令に従うつもりなどないだろうが、普遍の真理なるものを彼が求め続けているのも事実だ。
〜自分の願いを得る為には、何らかの犠牲を払うべきだ。〜
闘神であるクラウドにも、この考えはきっと自分同様根付いているに違いない。
そういう部分では、ザックスとクラウドは似た者同士なところがあった。
ザックスがこれまで神王帝釈天である公式の部分ではないところで、クラウドと親交を深くしてきたのも、こんな共通項を感じ取っていたからだ。
神王としての立場を優先すると、クラウドにはルーファウスの命令に従ってもらわなければならないのだろう。
だがザックス個人としては、クラウドの不利になるようなことは、なるべく避けたい。
どうするべきか――とザックスが躊躇っている目の前で、クラウドが鋭く切り返す。
「大梵天はオレにどうあっても、仏陀となる者の夢の中へと入らせたいということか」
――そうだろう?違っているか?
クラウドは馬鹿ではない。
ザックスほどにルーファウスを知っているのでもないが、今回の彼の態度に含むところがあるのは気が付いていた。
切り返されたルーファウスの目が細められる。
核心へと突っ込まれた不愉快さではなく、予想以上に手応えのあるクラウドを面白がっているのだ。
「――その通りだ」
タチの悪い微笑を口の端に乗せる。
神王としては相応しくなく、だからこそ彼にピッタリな不可思議な微笑だった。
「何故オレにそうさせたいのか?」
ここでクラウドは間を空けて、
「だがそれは、聞いても無駄なのだろう」
「そうだ――」
それに、
「ちなみに、お前が夢の中に入ることは、ヒラニヤ・ガルバを仏陀として覚醒させる方法として、一番適していることは事実だ」
ルーファウスのうのうと言ってのける。
「大梵天は兜率天随一の知恵者なんだと聞いている…」
「それが本当ならば、オレが真理を求める限り、今回はお前に従わねばならないのだろうな」
「そうだ――阿修羅王は賢いな」
ルーファウスは不可思議な微笑のままで、クラウドを褒めた。
「私は賢い者は好きだ」
それが例え、
「非天であってもな」
クラウドは眼差しをルーファウスに固定したまま、決意する。
「わかった――」
「その者の夢の中へと入ってみよう」
対と好意を持つ非天との間で、ザックスは彼らしくないため息を吐くしかなかった。
※宗教的表現や神様仏様が登場していますが、あくまで物語ですのでそのあたりよろしくお願いします。