大梵天ルーファウスは冴えた一瞥を対に投げかけると、話を進める。
ザックスとじゃれている場合ではないのだ。
「ザックス――私がお前の白象の姿を借りた時のことを覚えているか?」
神王には鳥獣が僕としてついている。
大梵天ルーファウスは四羽の鵞鳥。
帝釈天ザックスは白象であった。
ザックスは文字通り首を捻りしばしの間考える。
やがて思い当たったのだろう。
「あの時か!」
「人間界の女に送った時のことだろう」
「そうだ――人間界の女の夢の中に、お前の白象の姿を借り夢に送った時のことだ」
さりげなくザックスの記憶の補足説明をいれて、ルーファウスは要件に入った。
「我々はヒラニヤ・ガルバを用い、仏陀を人間界に降臨させるプロジェクトを始動させた」
仏陀とは絶対者。天部や人だけではない。この天地に存在するあまねく全てを導く役割を担っている。
人間界の暦で27年前、このプロジェクトは始まったのだ。
ヒラニヤ・ガルバとは黄金の胎児を指す。
仏陀を生み出す一大プロジェクトにおける重要な要だ。
黄金の胎児は宇宙誕生時にはすでに出現していたとされている。
生まれながらにしてすでにアートマンでもあり、また最終解脱者であるとも言われている。
つまりヒラニヤ・ガルバでなければ、最終解脱者である仏陀にはなれない。
ヒラニヤ・ガルバはこう詠われている。
太初において、黄金の胎児は顕現せり。
其の生まるるや万物の独一の主なりき。
彼は天地を安立させ、生気、力を与う。
彼は二足のもの、四足のものを支配する全世界の独立の王となれり。
彼は神々の上に君臨する独一の神なりき。
ヒラニヤ・ガルバは太初に現れて、そして消えていった。
その神々の上に君臨する独一の神を、仏陀として再び出現させるのである。
ルーファウスはヒラニヤ・ガルバを人間界に産み出すことに決めた。
「まず我々は白象を釈迦族王妃の夢の中に送り込んだ」
ザックスの白象は六本牙の形をとって、釈迦族王妃摩耶の胎内に入ったのだ。
そうやって仏陀を人界に降臨させる道筋を作った。
「王妃は見事に懐妊。月満ちて仏陀を産み落とした」
他の人間と同じ産道からではなく、彼女は右脇から子供を産み落として、一ヶ月後に死んだ。
いくらまだ未成熟で幼い赤子でしかなくとも、ヒラニヤ・ガルバだ。仏陀となる黄金の胎児を降臨させる奇依となるには、人の女の身はあまりにも脆弱すぎたのだ。
摩耶は文字通り己の生命力を全て注ぎ込んで、仏陀を降臨させた。
ヒラニヤ・ガルバであり仏陀となるべき子供はこうして人の世に生を受け、王の息子として健やかに育っていたのだが――
「覚醒が遅すぎる」
「プログラムによると、彼はすでに仏陀としての道を踏み出してなければならないというのに」
ヒラニヤ・ガルバとして生まれ、仏陀となるべき身でありながら、妻と子供をもうけ、時を無為に過ごしている。
少なくともルーファウスにはそう見えるのだ。
彼にはヒラニヤ・ガルバとしての能力を開眼させて、どのようなことがあっても絶対に仏陀となり覚醒して、最終解脱者になってもらわねば困る。
彼が仏陀とならなければ、真理どころか人の世は乱れ、末法へのカウントダウンが設定以上に早く進んでしまう。
そうなると56億7千万年後に現れる最終救世主弥勒の発動が上手くいかなくなってしまう。
全ては緻密にプログラムされているのだ。
ひとつの遅れは全体の遅れへと繋がり、結果失敗を引き起こしてしまう。
プログラムを組み、正常に発動させ、進行させていく。
そうやって天地と人を真理へと導いていくのが、神王の第一の使命なのだ。
それが解っているのかいないのか、対であるザックスはいつまでも暢気なもの。
ざんばらに切られた髪を掻きながら、
「ルーファウス。そんなのお前がちょっと働きかけてやれば、それで済むだろうに」
などと言ってのける。
ルーファウスは本日何度目になるかのため息をつきつつ、
「それがどうしようもないから、お前達を呼んだのだ」
「お前、もうなんかやってたのか」
――当たり前だろう。
プログラムの進行が遅いと感じた時点で、ルーファウスに打てる手はすでに打っているのに決まっているだろうに。
ルーファウスの打った手に、何の効き目もないからこそ、お前達を呼んだのだ。
と、ザックスに向かって言いたいことは山ほどあるが、ここで一々文句を垂れても、目の前の脳天気な神王は気にもすまい。
長い付き合いなのだ。そのくらいのことルーファウスはわきまえている。
なにせ大梵天というものは、理と知の神王なのだから。
山ほどある文句を苦い表情でグッと呑み込んでいくルーファウスを前にして、クラウドが耐えきれずに小さく笑う。
あくまでも傍観者であるクラウドのそんな態度に対し、ザックスへの憤り分も込めて、ルーファウスは鋭く睨み付けた。
だが怖気震え上がらせるほど眼差しが冷徹になれないのは、クラウドの笑顔を好ましいと感じているからだ。
皮肉以外で微笑むクラウドは、阿修羅という鬼とは思えないほど、可憐となる。
その上、クラウドはザックスよりも他人の心を読むのに機敏だ。
ルーファウスが気を悪くしているのを見取ったクラウドは、ザックスへの助け船というよりも、むしろルーファウスの為に、話の進行を手助けすることにした。
「それで大梵天はオレ達に何をさせたいのだ?」
ザックスだけとの遣り取りではどうしようもないと手詰まりだったルーファウスは、交渉相手をクラウドへとさっさと切り替え、
「クラウド――確か阿修羅族は夢に干渉出来たな?」
神王も含め天部は、人に夢による暗示を与えることは出来た。
それはあくまでも暗示のみ。摩耶夫人の胎内にザックスの六本牙の白象が入る夢も、ルーファウスによる暗示のひとつである。
阿修羅族はそれ以上のことが出来るのだ。
夢に直接入り込み、夢の中で実際に対面も出来る。
それどころか触れ合うことさえも可能。現実に邂逅しているのとほぼ遜色ない。
人の夢というものは、往々にして普段隠し通している本音がこぼれ落ちる場所だ。
本人にすら自覚していない、ごくごくプライベートな心理の持つ秘密の庭のようなものか。
「ヒラニヤ・ガルバである王子の夢に入り込み、王子の本心を読みとってもらいたい――」
そして出来るならば、
「王子に仏陀となるように、促してもらいたい」
いぶかしげに目を細めるクラウドに代わり、ザックスが反論を上げた。
「ちょっと待てよ」
「それってプログラムの倫理に抵触してないか?」
人界におけるプログラムを遂行する際、厳格な倫理が要求されるものだ。
特に神王や天部が人界に干渉するには、多くの制約が設けられている。
人より優れた存在である神王や天部が、自分たちの思いのままにプログラムを進行させるのを“強制”させないためだった。
つまり緻密で完璧なプログラムでも、現実に実行出来るかどうかには、偶然という名の不確定要素も盛り込まれているのだ。
この場合白象を使った仏陀誕生の暗示は許される。
ルーファウスがザックスとクラウドを呼びつけるまでに打った手も、この制約範囲内のものだった。
だが実際に天部がヒラニヤ・ガルバと対面して、強引に仏陀として覚醒させるのはかえってプログラムの円滑な進行の妨げになるとされており、仏陀覚醒はあくまでも本人の自主性が基本とされている筈なのに…
そんなザックスの反論など、ルーファウスの予想内のものだ。
「抵触はしない――」
現実世界で出会えば、ザックスの言うように制約に引っかかるが、
「だから夢だ」
「現実には会わせない」
あくまでも夢の中だけで止めるのだ。
「クラウド。どうだ?やってくれないか?」
大梵天ルーファウスの願いに、阿修羅王クラウドは首を緩く振ってシニカルな笑みで応じた。
「いいや――断る」
「第一、オレは天部ではない。非天だ。ルーファウス、あんたの命令に従ういわれなどない」
それに、
「いくらプログラムが予定通りに進行していないからと言って、ヒラニヤ・ガルバが仏陀となるのを強制する言われはないな」
強制されなくては解脱も出来ないなどと、完全なる覚醒者として相応しいのか。
それに――興味ないね。
素っ気ないクラウドにルーファウスは動じなかった。
この反応さえも、ルーファウスの想定範囲内なのだ。
「いいや、クラウド――お前は私の願いを聞かねばならない理由があるのだ」
「?」
「兜率天に攻め入ってくるほどお前が欲しがっていた“普遍の真理”――」
――いいか、クラウド。
「仏陀とは“普遍の真理”を我々に示してくれる唯一の存在なのだからな」
ヒラニヤ・ガルバたる者が仏陀への覚醒なくして、クラウドの求める真理は得られない。
だからこそ――私に力を貸すのだ。
大梵天ルーファウスの青い眼差しと、阿修羅王クラウドの青い眼差しが、一瞬交錯した。
同じ青ではあるが、全く違っている。
神王として頂点に立つルーファウスと、悪神であり未だ自ら非天と言い切るクラウドと。
あの戦いの結末に、帝釈天ザックスによって、二人は始めて邂逅した。
兜率天の中心たる須弥山の高い頂に、兜率宮がある。
天井も床も、柱さえも玻璃で作られた広間に大梵天はいた。
それはクラウドが見たこともないような、神秘の光景である。
玻璃なのに向こう側は透けて見えない。だが光の屈折率は異様に高く、一の光を千にも増幅させて、広間全体を煌めかせるのだ。
つまりはその煌めきでさえ、大梵天の権威を象徴づけるものであった。
並の天部ならば煌めきに負けてしまい、眩しくて眩しくて到底大梵天の姿など直視出来まい。
大梵天は煌めきの中心にただ静かに座しているだけなのに、煌めきの作用でとんでもなく神々しい存在となっているのだ。
数千年に渡る宿敵阿修羅王を迎えても、大梵天ルーファウスは静に玉座に座しているだけだった。
あるかなしかの笑みを含んでいるのは、いつものこと。
付き合いの長い対であるザックスには解っている。ルーファウスのこの表情は、無表情なのと同じであるということを。
つまりルーファウスは宿敵阿修羅王を、何の感慨もないままに、兜率宮に迎え入れているのだ。
敵に対する怒りもない。嘲りも嘲笑も、ましてや恐れすらもない。
神王たる大梵天ルーファウスとは、兜率天というシステムそのものであった。
兜率天というプログラムを緻密に計算して、実行に移していくという体制の要。
また兜率天というシステムアナリシスもやってのける。
武神ザックスとはまるで役割の違う神王なのだ。
玉座に座ったまま玻璃の煌めきに囲まれているルーファウスは、それだけで一個の芸術作品のよう。
ルーファウスに初めて対面した者は天部であろうと何者であろうとも、心穏やかではなくなってしまう。
無言の圧力に屈してしまい、負けないようにとことさら威圧的に振る舞うか、それとも怯えて卑屈になってしまうか。
ルーファウスからは何もしない。
ただこの広間へと通して、黙して座っているだけで、相手の本質が暴露されるのを眺めているだけで。
今回もそうだった。
阿修羅王を前にしても、ルーファウスは静かに玉座に座して、黙っているだけ。
ザックスも、ルーファウス自身がクラウドの言い分に耳を傾けるかどうかについて、口を挟む気はないのだ。
そもそもルーファウスが、他人の〜例えそれが対たるザックスの言うことでも〜裏付けのない頼みに心を開くことなどない。
ルーファウスは彼自身の耳と目で情報を集め、それによって自分の頭で判断する。
またルーファウスに己を認めさせることが出来なければ、クラウドそれだけの男でしかなくなってしまう。彼の戦いの意味など、完全になくなってしまうのだ。
口の端にあるかなしかの笑みをたたえたまま、大梵天ルーファウスは玉座から阿修羅王を見下ろす。
足下に控える四羽の鵞鳥が時折羽根を動かすささやかな音だけが、玻璃の煌めきの中に溶けていく。
一方の阿修羅王クラウドも堂々たるものであった。
彼はこの玻璃の広間を興味深げに見渡しはしたが、広間の豪華絢爛さに心打たれて見渡したのではなく、単純に知らぬ場所に連れてこられたという闘神の本能がそうさせたのだ。
広間を見渡しこの場での戦いのポイントや、脱出するとしたならばどこからが最適なのか、そういう諸々を冷静に推し量っている。
一通り広間の検分を終えたクラウドは、そうしてからやっと一段高い場所に座しているルーファウスへと関心を向けた。
細い手首に環となっている黄金の腕釧が、さらりと澄んだ音を立てる。
じっと座っていた鵞鳥がその音に反応した。
ゆっくりと首を巡らせて、初めて見る非天に焦点を当てた。
簡素な衣に胸甲だけをつけただけではあったが、戦いの最中であったというのに、クラウドはどこも見苦しくはない。
むしろザックスの方が、甲についた深い傷が戦場の生臭い埃となり漂ってくるようだ。
いくら武神といえども、雅やかではない。
鵞鳥たちはじっとクラウドを見た後、ルーファウスの足下から動き出す。
それも四羽とも。彼らは玉座から降りて、クラウドの側へと近づいていったのだ。
この様子に三者は三様に反応する。
まずはザックス。鵞鳥にとって主であるルーファウスの対である自分にさえも、いつまでたっても慣れぬ気位の高い鵞鳥が、しかも四羽とも、初対面の非天に並々ならぬ破格の好奇心を示すことが、純粋に面白いらしい。
腕組みをした顔はニヤけていた。
次に鵞鳥の主であるルーファウス。
彼は無意識にあった微笑を引っ込め、黙したまま鵞鳥たちの動きに注目していた。
そしてクラウド。少年の形をした阿修羅王は、自分の元にやってくる鵞鳥に見向きもしない。
気が付いていないのではなく、関心を払っていないのだ。
その証拠に、足下近くまでやってきた鵞鳥たちが「くくぅ」と啼いて羽根を広げると、驚いたように視線を下ろしたのだ。
鵞鳥はクラウドに構って欲しいのか。それとも威嚇でもしているのか。
四羽ともが短く啼きながら、極彩色の羽根を見せつけるように広げるのを認めると、
「――お前達の羽根はとてもきれいだな」
クラウドがこの広間に来て最初に語った相手は、鵞鳥だった。
「オレに見せてくれるんだな」
「――ありがとう」
非天の発する澄んだ声に鵞鳥は嬉しそうだ。
「ぐわぐわ」と啼くと、そのままクラウドの足下に座り込んでしまう。
玻璃の床に極彩色の羽根は美しく映える。
クラウドは単純に、そのコントラストを愛でた。
※宗教的表現や神様仏様が登場していますが、あくまで物語ですのでそのあたりよろしくお願いします。