ブッタという真理 1話


ブッタ シリーズ

兜率天は神の住む世界である。

まずこの世界の成り立ちを説こう。
世界を支えるのは風輪。虚空の中に浮かんでいる円盤状の巨大な物体である。
風輪の巨大さは果てがなく、長さを知ることも示すことも誰にも出来ない。

この風輪の上にあるのが水輪。水輪は風輪と同じ円盤状の形をしている。
水輪の大きさは直径120万3450由旬。高さは80万由旬あるとされていた。

この水輪の上に更に金輪が乗っている。
この金輪の大きさは、直径は風輪と同じ120万3450由旬とされているが、高さは32万由旬ほどと高さは風輪ほどはない。
だがこの金輪の上に山や海、そして島が、――つまり世界が乗っているのである。

金輪の上には9つの山がある。
中央一番高く聳えているのが須弥山。
ほかの山は山脈となって、須弥山を取り囲んでいるのである。

金輪には海もある。海は8つ。須弥山を取り囲んでいる山脈の間が海となっているのだ。
山脈内側の7つの海は淡水の海。外側にある大きな海が塩水の海。

この塩水の海には4つの島が浮かんでいた。
半月形となっている東の島。台形をしている南の島。西の島は円形。北の島は正方形である。
人が住んでいるのはこの南の島であった。

世界の中央に高くそびえるのが須弥山。須弥山のいただきにあるのが兜率天。
兜率天からは神の世界、欲界色界無色界だけではなく、欲界から遙か下に位置する人間界までをも見通す事が出来た。
ここ兜率天の主は大梵天と言う。闘神帝釈天とならび多くの天部を率いる神王の一人である。
この時大梵天はここ兜率天に信頼に足りる二人を呼びよせていた。


鮮やかな金の髪を高く頭上でまとめ上げ、繊細な意匠の天冠で飾っている。
そんな大梵天ルーファウスの足下には、四羽の鵞鳥が美しい羽根を畳んで、静かに控えていた。
天部の頂に立つ神王大梵天は、理知を讃えるノーブルな姿をしている。
手首の腕釧がさらりとした音を奏でて、天衣の間を滑っていった。
明度の高い青い瞳は伏せられており、いかにも悩ましげなため息を二度三度と吐いて見せている。
理由も聞かされずにルーファウスに呼びつけられた天部二人は、眼差しで会話を交わして、すぐに小柄な天部は尖った顎をついと顔を逸らす。
まるでもう一人に向かって「話はお前が聞くのが当然なのだ」とでも言うように。
残りの大柄な天部、大梵天と並ぶ神王帝釈天は、口を子供っぽくへの字にしたが、小柄な天部の態度に反抗する気はなさそうだ。
そもそも対である同じ神王たる大梵天と付き合いが長いのは帝釈天なのだし。
対である大梵天の悩みを一番早く深く理解し解決に手助けするのも、帝釈天の仕事なのだし。
衣の上に実用的で簡素な甲をつけた神王帝釈天ザックスは、この場にいるのは気心の知れた天部だけであるということもあり、神王らしくない気安い口調でルーファウスに話しかける。
「なあ、俺らにナンか用?」
大梵天は英知を以て。
帝釈天は武を以て。
共にこの兜率天を治めるという役割を担っている筈の帝釈天の、この品のない態度に、ルーファウスはさっきよりも深く長いため息を吐いた。
「まったく――お前は救いようのない馬鹿者だな」
「あー!ひでぇっ」
筋骨逞しい身体を大きく逸らして、ザックスは不満を露わにする。
「お前がいきなり呼びつけてくるから、急いでやってきたんだぜ」
どこか幼いおしつけがましさに、ルーファウスの柳眉がつり上がっていく。
「私に呼ばれるまで、この事態に気が付かないとは…。お前はおめでたい男だ」
「おい。ルーファウス!」
その言葉聞き捨てならない。
「四方の護りは四天王を据えてある。十二神将もちゃんと配置してある――」
指で空を示し、
「日天、月天もちゃんとそこにいる」
いいか。
「武の護りはバッチリだ」
「俺は武神なんだよ。俺の仕事は立派に果たしているぜ」
確かに神王帝釈天ザックスの言葉は、ある意味正しい。
そしてある意味、正しくはない。
ルーファウスは端正な顔をこれみよがしに歪めてみせる。
――なぜこれが私の対なのだ。
仮にもザックスは神王なのだ。ただの武神でも、ましてやただの天部ではないのだと、幾度言い聞かせて説いてみてもこの男には通じない。
神王には神王の責務があるのだ。
天界を人界をそして獄界を正しくあるべき方向へと導かねばならないのだと言うのに。

苦渋を露わにしたルーファウスが向けた視線の先に、神王二人の遣り取りをさも興味なさそうにしてたたずんでいる、小柄な天部の姿がある。
腕を組み、日天と月天が守護する空へと向けているその横顔は、自分は無関係なのだと雄弁に物語っていた。
その繊細な横顔に兜率天の空の色はよく映える。
彼はルーファウスやザックスと比べると、まるで違う出で立ちをしていた。
まずルーファウスやザックスが大人の男である貴人形であるのに比べ、彼はまだ少年にしか見えない。
少年が一番危うく一番美しいその一瞬が、彼なのだ。
もっとも天部は神である。外見と人でいう実年齢が合っているとは限らない。
実際に彼もそうだ。少女めいた神秘的な少年天部に見えるが、これでも彼は一族の王なのだ。しかも一番どう猛で武勇に優れている戦闘民族の王である。
透き通る肌を惜しげもなくさらし、上半身には肩から薄く伸びている上帛のみ。
下半身は朱、緑青、群青で色彩された宝相華文の裳を身につけている。足下も裸足に簡素な板金剛を履いているだけで。
癖のある髪は結い上げてもおらず、無造作に短く切られてある。ルーファウスよりも色彩の高い金色の髪は、天冠さえもないのだ。
ただ首から胸へと掛かっている胸飾と腕と手首にある臂釧と腕釧は、全て黄金で統一されていた。
ほっそりとした未発達な肢体といい、半分裸であり甲冑さえつけていない姿といい、誰が彼を天に徒をなしていた悪神だと想像出来ようや。
ただ大梵天ルーファウスと同じ色でありながら、彼よりも強烈な意志を持つ瞳だけが、彼が闘神であるのだと訴えていた。

この少女のような少年天部が、一族の戦士を引き連れ、四天王十二神将を退けて、兜率天まで辿り着くこと三度。
数の上では圧倒的な差があったというのに、武神帝釈天と数千年に渡り激しい闘いを演じたのだ。
自他共に認める天部一の闘神。阿修羅族の長、阿修羅王クラウド。
それが彼の名である。


天部にとってはほんの少し前まで、クラウドは敵であった。
西よりいきなり現れた異形の一族、阿修羅族の常に先陣に立っていたのが、クラウドだったのだ。
兜率天を護ろうと奮戦するザックスは、四天王と十二神将、その配下の数千万超える兵を率い応戦するが、数の上では勝っているのにも関わらず、数千年経っても決着はつかない。
そのうちにザックスはある疑問を持つ。
――こいつの目的はなんだ?
血を好んでいるのでもない。
刃を交えていれば、そのくらい解る。
かといって欲に駆られているのでもなく。
ザックスが見る限り、物欲色欲ともに、阿修羅王クラウドとは無縁であった。
むしろクラウドは欲に薄いのだ。
戦闘が長期となり、さしもの四天王十二神将が果てのない闘いに疲労を濃くしているというのに、阿修羅族の士気は一向に衰えない。
――絶対に何か目的があるはずだ。
こう思いこんだザックスはある手段をとった。
大梵天ルーファウスならば別の方法を選ぶだろうが、生憎ザックスはどこまでいっても戦士なのだ。
下手な小細工や駆け引きなど、ザックスには無縁のもの。
阿修羅王とのサシの勝負の合間、刃を激しく交えながらザックスは問う。
何が目的なのか――と。
少年王は青い眼差しをひたりと定め、一言。
「真理を――」
ぎりぎりの極限状態での凄まじい闘いを繰り広げている悪神であるというのに、聖女の如き清楚な唇から出たのは、ザックスの予想など遙かに超えた真摯なもの。
「――真理だって!?」
そうだ。と、阿修羅王は青の眼差しを清冽にして、
「オレにはオレの、あんたらにはあんたらの――」
そして、
「人には人の、獣には獣の、それぞれその時々の真理というものがあるのは、わかっている」
形が違えば種族も違う。根本的に相容れないことだってあるのだ。
そのそれぞれの考え方、立場。その時々の状況や置かれている環境などで、正義も悪も肯も否も、とても簡単に変わってしまう。
さっきまで光を求めて叫んでいたものが、次の瞬間には闇夜を欲するなどザラにあること。
阿修羅王が求める真理とはそういう安易で曖昧なものではない。
「オレは――そんな簡単にブレてしまうような曖昧なものではなく、天地全てに通じる絶対の真理を知りたい」
阿修羅王の言葉はザックスの胸奥にまで突き刺さってくる。
目の前で何かが動き始めた気がした。心が阿修羅王の言葉を求めて開かれていく。
思わず剣を振るう動きを止めてしまい、ザックスは全く無防備となってしまう。
格好の餌食となった敵の総大将ザックスを相手にしながら、阿修羅王は攻撃しなかった。
彼も体格にそぐわない大剣を引き、静かにザックスの前へと立つ。
少女めいた容貌と、繊細に整いすぎて血肉の通っていない人形にさえ見える透き通った肌の下には、激しすぎる信念があるのだ。
そのどれもを、ザックスは貴いと感じた。
「――どうして…」
「真理を求めるだけならば、どうして兜率天に攻め入ってくるんだ?」
阿修羅王の返答はシンプルで明快である。
「普遍の真理というものがあるのならば、それを一番先に示し、天地を導かねばならぬ兜率天が、いつまで経っても真理を指し示さずに明確にもしないからだ」
指摘されてハッとする。
ザックスは神王帝釈天として、ここ兜率天に有り続けている。
大梵天ルーファウスの対として、ずっと生きてきたのだ。
外部から兜率天を仰ぎ見たことなどない。
――そう言われてみれば、その通りだな。
外部から見てみれば、確かに世界の頂点にある兜率天は、常に仰ぎ見るべき神聖な場なのだ。
神王が兜率天には在り、天部が護っている神域。
この神域こそが、この世を正しく導くべき場なのだとそう思うのも当然なのだ。
だがザックスの良く知る兜率天とは、そうではない。
もっと大いなる意識が描く道筋を、大梵天が緻密にプログラムする。
大梵天の組んだプログラムに添って、天部達は忠実に動いているのだ。
このプログラムに反するものや、プログラムを阻害するものは、武の神王帝釈天ザックスが排除していく。
ザックスの知る兜率天は、そういうプログラムを執行する、ただの一セクションでしかないのだ。
阿修羅王の求める真理など、兜率天にはない。

ザックスの意識に阿修羅王の言葉が響く。
「オレ達阿修羅族は、兜率天の命じる通り、雨や風を起こし嵐を呼んできた」
阿修羅族とは元来天部ではない。元はその地域に根付いた神と呼ばれた一部族であった。
古来より暴風雨を司っている。
「帝釈天よ――知っているか?」
「嵐が起こると作物が育たなくなる」
「作物が育たないと飢饉となる」
人がバタバタと面白いように死んでしまう。
人が死ぬだけではない。それだけではないのだ。
「死人が増えると次は疫病だ」
ここで始めて阿修羅王が嗤った。自嘲の凍り付くシニカルな笑みだ。
「そうやってオレ達阿修羅族は悪神と呼ばれるようになったのだ」
大梵天のプログラムに従った、これがひとつの結果なのだ。
だが、
「俺達が悪神と呼ばれることはどうでもいい――」
問題はそこではない。
「オレ達を悪神と呼ばせるほどに、それだけ人を惨くすることに、何の真理があると言うのか」
――それを教えてもらいたい。
「答えをもらいうけるまで、オレ達は闘い続ける」
姿形と同じく、男にしては繊細な声は、ザックスへとしみいってくる。

――コイツは間違っていない。
剣を握る己の手に視線を落とす。
――コイツとは戦えねえな。
闘いを仕掛けてきた阿修羅族よりも、確たる答えを与えられなかった兜率天の方が、ずっと罪深い。
顔を上げた時には、すでに定まっていた。
ザックスは愛嬌たっぷりの大きな笑顔を阿修羅王に向けると、大きく息を吸い込み、全てに向けて腹の底から一喝する。
「ヤメロ!」
正しく吼えたのだ。
神王帝釈天の一喝は戦場の隅々まで届く。
「俺はもう阿修羅族とは戦うわねぇ」
「お前らも刀を引っ込めろ」
戦場のまっただ中で、何という無茶なことを。
それでも天部達は神王の命令に従うしかない。
また、刀を引いていく敵に対して、阿修羅族もこの絶好のチャンスを利用しようとはせず、天部と同じく戦いの手を止めてしまい、自分の王を仰ぐ。
阿修羅王は無表情なままで、ザックスを窺った。
人形のようなきれいな顔に、ザックスは再び笑いかけ、
「大梵天に会わせてやる――来な」
「あと、俺の名はザックスってんだ。こっちの名前で呼んでくれ」
神王が真名を教えてしかも呼んでくれと願うのは、とても破格なこと。
ザックスの気持ちはしっかりと伝わった。
やがて阿修羅王は表情を少しだけ緩め、
「オレは阿修羅王クラウドだ――」
自らも真名を名乗る。


ここに阿修羅族との永きに渡る戦いは終結したのだ。



※宗教的表現や神様仏様が登場していますが、あくまで物語ですのでそのあたりよろしくお願いします。

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