オーヴァチュア
OP/ZS/2006年にょろそろじー参加作品
そして二十四時間後。
サンジはすっかり後悔していた。
サンジのいる繁殖場は大きな半円のドーム型温室で、天井も壁も全て硝子貼りになっている。
ドーム内の周囲は背の高い大きな木で覆われ、外からは小川が引き込まれ水音は耳に優しく、尾の長い鳥が囀り歌っている。
天井からの光がドーム全体に明るくキラキラと降り注ぎ輝いている美しい場所だった。
後悔するなんて罰当たりなまでに美しい光景。
しかし、このドームの中央に群生している青白く半透明でぬるっとしながら蠢めく《にょろ》。
動く度にぬめった粘膜の中で緑の線が発光する。
にょろにょろで、うねうねしている。
サンジはにょろっとした表面が視界に入っただけでNGだ。
しかもこの《にょろ》は、高さが五十センチ程度と小ぶりではあったが、筒状の細長い先端より十センチ程下がった部分から枝分かれし、左右に数本ずつ触手のように見えるものを飛び出させたり引っ込めたりしながら蠢めくのだからたまらない。
見ているだけで背中はぞわぞわし、鳥肌は立ちっぱなし、もしかしたら髪の毛も逆立っているかもしれない。
こんな場所に野郎と二人きりだって切ないのにサンジはこの先一週間もの期間耐え切れるか不安で仕方ない。
しかも唯一の共同生活仲間であるゾロはドームに入ってからこっちサンジの方を見ようともしない。そっちがその気ならこっちにだって、と張り合いたいのは山々だったがそれも大人気ないような気もするし、例え《飯なんか》と言う奴にだって、食わせないわけにはいかない。
邪魔だと思われたって一週間は一緒にいなくちゃならない。
おれだって好きで来てるわけじゃねぇのにな。
チラリと視線を走らせるとゾロは黙々と《にょろ》を抜いては選別している。
まるでサンジなんかいないかのような振る舞いだ。
おれの世話なんか要らないって言ってたもんな。
仲良しとは思わないがちょっとくらいは友情めいたものだって感じていたし、そこまで嫌われているとは思わなかった。どんどん暗くなる思考の渦にブルーになりながらサンジは溜息をひとつついた。
「おれはちょっと飯の仕度してくっからな。適当に小屋へ来いよ」
それでもサンジはゾロのように無視を決め込むわけにもいかず、株を分けているゾロに偉そうに言い置くと鑑定士用に用意されていた小屋へと向かった。
とりあえず逃げるしかない。
《にょろ》が視界に入り込まない場所は小屋の中だけなのだ。
そしてゾロが視界に入らない場所も。
小屋には簡単なキッチンに暖炉、無骨なテーブルに椅子が二脚、むき出しの浴槽に大きなマットがひとつ。マットの上には毛布が二枚。ベッドの代わりにしろということだろう。そして壁際に大量の食料と酒。
つまり期限の一週間が終わるまでサンジはゾロとこのドームより外へ出ることはできない。大きなドームは貴重な《にょろ》を勝手に持ち出されることのないよう、外から厳重に鍵がかけてある。もちろん逃げようと思えば、サンジは蹴りひとつで簡単に外へ出ることは可能だが、仕事で来ているのだからそれも叶わない。
サンジは部屋の隅にあった小麦を練りながら溜息をつくしかなかった。
狭い部屋の中にうず高く積み上げてある酒瓶の中からビールを一本取ると小麦粉に練りこんだ。
ビールで発酵させ薄く伸ばして焼くと簡単でも歯応えのあるパンができる。
水で濡らした布巾で種を覆うと、サンジは小さな冷蔵庫を覗き込み、肉の塊を手に取った。
こうして料理に集中していればあのぬとぬとした気色悪い存在を忘れることができる。
しかも緑の頭のバカのことも考えないですむ。
腕を動かしながら、できるだけ《にょろ》とゾロのことを頭の隅に追いやると、サンジは手を早めた。
カチャカチャと食器が僅かに立てる音、時折大きく酒が嚥下されている。
そんな小さな音しか聞こえてこない。
今まで常に人の十倍は騒がしい船長をかわしながら、マシンガンのように話し続ける狙撃手を黙らせつつ、それこそ戦争のように料理の争奪が繰り広げられる中、みなの取り分が船長に取られないように怒鳴り宥め、時には脚を繰り出して攻防しつつ食事をしていたから気が付かなかったが、目の前のゾロは行儀良く手を合わせ、軽く口の中で「イタダキマス」と呟いてから食事に手をつけたのもハッキリ見て取れた。
無駄に音を立てることもなく、食い方は粗雑に見えるのに実に丁寧に噛み締めて飲み込む。
ちゃんと味わって食べている。
黙々と淡々と、でも嫌がってる風でもなくごくごく自然に食べている。
《飯なんか》って言ってた癖によ。
サンジも黙って食べながら、でもやっぱり落ち着けない。
バラティエにいたその昔にしたって、今現在の羊船だって、賑やかで煩いくらいで、騒がしかった。だから、どうにも居心地が悪いような気がしてしまう。
サンジが一人でグルグルと考え込んでいると、ゾロがまた小さく手を合わせ、口の中で「ゴチソウサマ」と言うのが見えた。
コイツ礼儀正しかったんだなとサンジは思う。
じっとその様子を眺めているとゾロとバッチリ視線が合ってしまった。
「なんかついてっか?」
「え?」
「え?じゃなくてよ。何見てんだ?」
見てる?
指摘された途端、顔に血が集まるのがわかる。
「や、見てんじゃねぇ。別に見たいんじゃねぇよ。テメエが、マリモの癖に行儀いいなぁとか思ったんでもねぇし」
勢い込んで返事をしながらサンジは妙に動揺してしまう。
怪訝そうにサンジを眺めるゾロの視線が痛くて顔は火照るしどうしていいかわからない。動揺している自分に動揺するなんて、なんだかおかしい。
だいたいこんなに静かだから調子が狂うんだ。
今まで生きてきてこんなに静かだったのはあの時だけだ。
それでも海は近かった。海の音だけは聞こえていた。
だからきっと、落ち着かないのは静か過ぎるからだ。
きっとそうだ。
「おまえ…」
「あのよ。飲むんだろう?」
ゾロの言葉の先を慌てて遮ると、サンジは小屋の隅の酒瓶に視線を走らせる。
「ああ」
「じゃ特別におれ様がツマミを作ってやる」
バクバクとしてきた心臓に冷や汗を流しながらサンジはゾロに背を向けた。
手早くツマミを見繕うとテーブルの上に酒と一緒に出してやる。
普段のサンジとは明らかに違うサービスっぷりにゾロは疑わしそうな顔をしているが、目の前の酒を見ると口元が緩んでいた。
本当にこいつは酒が好きだな。
サンジはそう思いながら、自ら酌をしてやる。
「ほれ。好きなだけ飲めよ」
「気持ち悪りぃ」
「なんだとゴラァ!テメエさっきからクソムカつくんだよ!」
「テメエが素直に酒を出すだけでも変なのに、ツマミまで出して酌までしてくれんのって変だろうがよ。気持ち悪りぃさ」
「なんだよ。その言い草は。おれだってわけもなく酒を飲むなって言ってるんじゃねぇよ。海の上じゃ何が起こるかわからねぇ。いざって時にはテメエの好きな強い酒っていうのは、気付け代わりにも麻酔にも消毒にもなるし、体も暖めてくれる。水代わりみてぇに飲まれたらたまらねぇんだよ」
サンジが一息に言い尽くすと、ゾロは目を大きくして小さな声で呟いた。
「悪りぃ」
あまりに素直な一言にサンジはまたドキリとなって顔が赤くなるく気がしたが、誤魔化すように声を明るくしてゾロにグラスを押しつけた。
「わかりゃいいんだ。《飯なんか》って言ったこともその珍しい一言で許してやらぁ。ここは陸だし、酒はおれたちの懐から出てるもんじゃねぇし、好きなだけ飲めばいいぜ」
サンジのグラスを受け取るとゾロは心底嬉しそうな顔をして頷いた。
素直に酒を口に含み本当に幸せそうだから、サンジの口も軽くなる。
「しかしテメエと二人っきりなんて、どんな罰ゲームなんだよ。ったくレディだったらなぁ」
「だから来るなって言ったんだよ」
「なんだよ。蒸し返すことねぇだろう。可愛くねぇな。ったく。せっかくサービスしてやってんのに」
テーブルの皿に視線を投げるとゾロがニタリと笑った。
「まあこのサービスは美味いな」
またドキリとする。
美味いって・・・ゾロが美味いって言った。
耳まで赤くしながらサンジはどうリアクションしたらいいのかわからない。
「もっとねぇのか?」
「もっと食いたいのか?」
「食いてぇな」
指でツマミを掴むと口の中に放り込みながらゾロがサンジの顔をじっと見つめる。親指についたソースをゾロが舐める音までリアルに響いて、サンジのドキドキも火照りも止まらない。
なんだっておれがこんな気持ちになんないとならねぇんだよ。
来る前はおれなんか要らないって言った癖に酒の前では素直になんのかよ。ったく調子が狂いっぱなしで頭が煮立ちそうだぜ。
サンジは頭をガシガシと掻くとわざと大きな音を立てて席を立った。
「ったく。あーーーっ。うっとおしいな」
「うっとおしいなら要らねぇ」
「早とちりするな。テメエのことじゃねぇ。待ってろ。同じのじゃねぇがもっとクソ美味いもん作ってやっから」
耳まで赤いサンジの後姿を眺めながらゾロは嬉しそうに頷いた。
その夜は不思議な夜だった。
ゾロと二人きりだっていうのは不思議を引っくり返して不気味だが、喧嘩もせずに酒を酌みかわしていることが一番不思議で不気味だとサンジは思う。
「いい酒だなぁ。テメエと飲んでも気分がいいなんて、よっぽどいい酒なんだろうな。親方も随分弾んだな」
「ま、それだけ儲かんだろ」
あっさり言いながらゾロは酒を飲む。
「なんだよ。つまんねぇな」
言いながらも機嫌よく笑っているサンジを見るゾロの目がいつもより優しい気がするから、サンジは余計に酒を煽ってしまう。
だからゾロが飲みながら言っていた注意をちゃんと覚えていなかったのかもしれない。
「いいか。だから、絶対に月が出てる時は外に出るなよ」
「なんでだよ。しょんべんしたくなったらどうすんだよ」
「辛抱しろよ」
「バカマリモ!出もの腫れもの所嫌わずだ。辛抱なんかできっかよ」
「それでも月が出ている時は外に出ないでくれ」
ゾロの顔が随分必死だったような気はした。
だがすっかり出来上がってしまって話をちゃんと聞いていなかったサンジはそのまま眠りこけ、喉の渇きで目覚めた時も、多少頭は痛かったが、楽しかったよなぁと呑気に考え、生理的欲求に従ってふらふらと外に出た。
用を足して、空を見上げると、ドームの中に光を振り注ぐ月はくっきりと明るく輝いていた。
夜だというのにはっきりと強い光は昼の明かりとはまた違った美しさで、しばらく見とれていた時だ。
強い強い光の渦が視線の端に入り込んだ。
黄金色に輝くみたこともない発光体が、光の線の渦となって踊っているようだった。細長く輝く光の紐が幾重にも伸びて絡まりそして大きくなり、脈打ちながら螺旋に繋がり、また解ける。
何度も繰り返しながら周囲にも光の粉のようなものを降り注いでいた。現実のものとは思えない美しさにサンジは息を飲んでみつめていた。
見惚れたまま立ち尽くすサンジに金の粉が舞い落ちる。
ふわりと落ちてはまるで雪のように解けてサンジの中に消えてく。