まず8日18時にはれくいんについてコメントをくださった方> はれくいんの指南。ありがとうございました。 そうか!と何か開眼した想いになりました。 書いていらっしゃることははれくいん設定としては当然なのでしょうが、 改めて定義のようなご指摘に色々とスッキリしました。 本当にありがとうございました。 どこまで定義に近いものが書けるかは不安ですが、 頑張りたいと思います。
続きです。
*** ともかく14歳になったクラウドは、あるパーティで人形となっていた。 別にいかがわしい意味での人形ではなく、あくまでも少年の美貌を一種の芸術品として扱っていたものだった。生きている絵画とか彫刻とか、そういう意味でクラウドはあの場所にいたのだ。 他にも似たような”人形”はいくつかいたが、他の少年や少女や、豊満な女性や美しい青年も目に入らない。 繊細な容姿を無関心で覆った少年を、一目でセフィロスは欲しいと感じる。 そう−−初めてクラウドと会った時の気持ちをどう言い表せば良いのだろうか。 指先まで満たされる満足感と、同時に襲ってくる飢餓に似た少年への欲望と。 押さえきれなくなった感情そのままに少年に駆け寄って、その手をとる。 ピンク色の爪までが繊細な少年の手の体温にセフィロスは真理を見た。 一度とった手を放すことなど出来ない。そのままセフィロスは少年の手を強引に引き続け、ついには側におくことに成功。 そしてやっと少年の心までをも手にいれることが出来たのだと、セフィロスは自負している。 だが、そこでエンドマークがうたれたのではない。 セフィロスとクラウドとの本編は、これからなのだ。
恋人となった少年は、今でもセフィロスに初めて出会った時の感動と興奮を与えてくれる。 指先まで満たされていくという実感出来る満足感は、いつまでもセフィロスを軽く酔わせるのだ。 そして同時に襲ってくる飢餓感は、少年の金髪の一筋さえも飢えて求める。 だからこそ思うのだ。 自分は少年に何を与えているのだろうか、と。 自問自答しても答えは出てこない。 金は与えた。住む場所も。 人形だった少年に自由も与えた。 セフィロスのおかげでクラウドの母も今は普通に暮らして行けている。 彼女は快くクラウドをセフィロスに託してくれて、自らはこの国から出ていった。 寂しがらないようにと、仕事のほとんどにクラウドを同伴しているし、スケジュールもかなりゆったりとしたものになっている。 でも−−それで充分なのだろうか? 確かにクラウドはセフィロスに感謝してくれているだろう。 金銭面でも、生活面でも。 そこのところは素直に信じていられるが、セフィロスが問題としたいのはそこではない。 自分が少年から感じられる、満足感を飢餓感を、もしくはそれに匹敵するだけの何かを、クラウドに与えられているのだろうか。 クラウドは感じてくれているのだろうか。 その答えが知りたい。
まず、両手を高く掲げる。 頭上から降りてくる世界を、指揮棒を使い、オーケストラ一人一人に与えるのだ。 それは輝きでもあり、もっと重苦しい悲哀でもある。 だが演奏する曲はどれも、作曲家たちが己の内にある神と対話をして血肉を培い、芸術として昇華させたものばかり。 その素晴らしさだけは違えようもない。 セフィロスの指揮者としての使命は、作曲家たちの芸術作品を、如何に己の血肉と混ぜ合わせて具現化させ、その具現化させた世界をオーケストラに表現させるかである。 美しいだけでは物足りない。 哀切だけでは詰まらない。 現実に歩む人生とはドラマティックである。その現実のドラマに劣らないだけの、チープでは終わらない喜怒哀楽を生み出すのだ。指揮棒を握るこの左手に込めて。
今回セフィロスはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体ともなる、ウィーン国立歌劇場管弦楽団の指揮をする。 ウィーン国立歌劇場管弦楽団とは、その名称の指す通りウィーン国立歌劇場専属のオーケストラであった。定員は150名。六管編成となっている。 毎年9月1日から翌年6月30日までのシーズンに約300回のオペラバレエ公演を行う。 ちなみにウィーン・フィルハーモニーとの関係は密接であり、この国立歌劇場管弦楽団のメンバーが自主運営団体としてウィーン・フィルハーモニーを組織して、各地で演奏活動を行っているのである。 セフィロスが指揮をとるのは歌劇『イタリアのトルコ人』ロッシーニの作品だ。 主要人物は7人。トルコの王子。イタリア人妻。イタリア人夫。イタリア人妻の崇拝者。イタリア人夫の友人である詩人。トルコの王子の以前の恋人。以前恋人だった女の友人と。 主にイタリア人夫婦とトルコ人の元恋人という、二組のカップルが織りなす恋模様の悲喜劇である。 以前、そう、クラウドど出会うまでのセフィロスならば、この類のオペラの演奏は苦手であった。 批評家からも演奏家からも芳しい評価も得られず、正直指揮棒を振るっていても恋に纏わる悲喜劇など退屈でしかなかったのだ。 確かにセフィロスの指揮は完璧だ。 作曲家の作り上げた譜面通りに始まって、そして終わってしまう。 しかし、ただそれだけ。 ある批評家からは「コンピューターの演奏と同じだ」という辛辣な批評を受けたこともあった。 だが、クラウドを得てからのセフィロスは違う。 セフィロスは理解したのだ。知識ではなく実際の体験として、傍目から見れば理解不可能であっても、恋の当事者からすれば恋人の眼差しひとつで一喜一憂するのが当然なのだと。 恋模様も、悲喜劇も、大いに結構。 なんといってもセフィロスは、すでに恋の悲喜劇の一員なのだ。 恋を自覚したセフィロスの指揮は劇的に変化する。 かれは恋の高貴さも、愚かしさも、何気ない日常を歌いあげる術さえ覚えたのだ。 完璧な演奏に加え、繊細で緻密でありながら、情感まで表現しきるセフィロスは、英雄とまで讃えられるようになった。 *** ここまで。
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