ウィーン――この都市の起源は古く由緒正しい。
名の由来はローマ帝国の宿営地、Vindobonaをその起源としている。
かつてはヨーロッパ数カ国を支配したハプスブルグ家、オーストリア帝国の首都でもあった。
オーストリア系ハプスブルグ家最後の女帝マリア・テレジア時代に栄え、勤勉で有名であったフ
ランツ・ヨーゼフT世の都市計画により、現在の歴史建造物が並ぶ都市となった。
またウィーンとは2つの道が交差するところに生まれた町である。
ヨーロッパで二番名に長い大河ドナウに沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタ
リアを結ぶ南北との道との交差地点にあったのがウィーンなのだ。
ゲルマン系、スラヴ系、マジャール系、ラテン系それぞれの居住域の接点でもあった。
紀元前5世紀以降。ケルト人はここの小さな村を作る。
その後ローマ帝国は北の拠点としてこの村をケルトの民から接収。ローマ帝国の町を建設した。
またオスマン帝国隆盛時にはヨーロッパから見てのアジアの入り口にあたっている。
これらの歴史から見てもウィーンとは伝統的に多彩な民族性を集約した都市なのだ。
ここに一人の男がいる。
名はセフィロス。190に届く長身。長い腕と長い足。長身の人間にありがちなバランスの悪い
いびつさはない。
黄金率の見事な身体の上にあるのは、神の寵愛を一身に受けた奇跡の美貌。
長い銀髪を無造作にたらした彼の職業は音楽家である。
いや、もっと的確に表すならば、彼は指揮者であった。
しかも世界的に有望であり著名な若手指揮者なのだ。
この彼の奇跡の美貌には理由があった。セフィロスはまるでウィーンという都市の歴史を具現し
たような、複雑で多彩な血の持ち主なのだ。
彼の一族の血統は古い。4代前まで遡ってみると、彼には多くの異質な血が流れていることが解
る。
まずはゲルマン人の血。
現在ではドイツ、オーストリア、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、デンマークなどに住む
人々を主に指すが、彼の母方の祖母はゲルマン人であった。
次にラテンの血。
イタリア、フランス、スペイン、ポルトガルに住む人々がラテンの系譜を引く血の持ち主である
と言われている。
マジャールの血。
これは主にハンガリー人を指す。セフィロスの母方の祖父はイタリア人とハンガリー人、つまり
ラテンとマジャールとの混血であった。
このようにセフィロスは母方の血だけでも三つの血を受け継いでいる。
その上またセフィロスの父親も混じり合った血を引いていたのだ。
セフィロスの父親はアジア人。国籍はモンゴロイドである日本人だ。
だが彼はスラブの血も引いていた。
スラブ系は主に中欧や東欧に位置する民族の大きなカテゴリーである。
共通のスラブ語で特徴づけられていた。
ゲルマン、ラテン、マジャール、スラブ、そしてモンゴロイド。
もっともヨーロッパに住む人々は、これまでの長い歴史により血が雑多に混じっているため、正
確な血の区別ははっきりしないものの、セフィロスがかなり複雑な血と遺伝子とによって生み出
されたのだけは明確である。
この血の複雑なブレンドこそが、セフィロスという奇跡の美貌を生み出したのだろう。
いや、この奇跡は容貌だけではない。
セフィロスという男は、才能にも恵まれている。
弱冠30代でウィーン交響楽団の主席指揮者に選ばれた天才であるセフィロスだが、
神の恩寵を一身に受けたセフィロスの天才ぶりは、指揮や音楽分野のみにあらず。
英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ロシア語にも精通し、どれも母国語と同じよ
うに操れる。
政治学・経済学にもその才能の片鱗を表しており、世界有数のコングロマリット、神羅顧
問の一人として名を連ねていた。
このように多種多彩な分野で天才ぶりを遺憾なく発揮するセフィロスだが、彼にはもうひとつ隠
された趣味もあった。
それは数年前から出来た、比較的新しい趣味であると言えよう。
共に暮らす愛する人、クラウド・ストライフを様々な方法にて愛でることであった。
セフィロスの愛する少年、クラウドの外見は見事な金髪碧眼の持ち主である。白い肌とすんなり
とした肢体。
特徴的な金髪にも、青い双眸にも、全く混じりけがない。これ程までに澄んだ色と輝きを出すの
には、相当精錬されなくてはならないだろう。
彼の血はセフィロスとは違いシンプルであった。
クラウドの母親は中流以下の階級出身である為、己の血のルーツを知らない。だが彼女もクラウ
ドに似た金髪碧眼の持ち主である。
一方、クラウドの父親は上流階級の一員であった。
彼の血のルーツは千年前から証明出来たのだ。
父親は邂逅する筈のない相手、身分違いな平凡な少女に恋をする。すでに妻子がいる身でありな
がら、少女を己の恋人とした。
彼は少女こそ、運命の女なのだと悟った。そして生まれたのがクラウドだ。
父親は少女を彼なりの誠実さで愛していたのだろう。
住む家を与え充分な生活費を宛い、時間が空けば恋人の元に通った。
恋人そっくりな息子が生まれてからは、ますます愛情深くなり、先に生まれていた正妻との間の
子供よりもクラウドを愛した。
愛人関係にあるという事を除けば、二人は真実愛し合っていたのだと言えるだろう。
郊外にある小さな家で、二人は立派に家庭を築きあげていたのだが、その幸せは泡のように儚い。
急な事故で父親が死ぬと、生活は一変する。
幼い息子を抱えた恋人は、当然のように正妻により疎まれていたのだ。
どこまでもお坊ちゃん育ちであった父親は、生前のうちに恋人と息子の頼れるだけの術を何も残
しておかなかった。確かな後ろ盾も、金銭的にも。
そこをつけ込まれた。家を追い出され、財産は没収。彼女に残ったのはまだほんの子供でしかな
い息子のみ。
彼女は生活の為に働きに出ていき、子供は一人で待つ日々が続く。
たった一人きりで。ずっと、ずっと――
セフィロスが少年から聞いているのはここまで。
その先は知ってはいるものの、少年自身の口からは語られてはいないから、セフィロスは知らな
いことにしている。
だがクラウドの自分と出会うまでの過去とは、セフィロスにとってとても切ない感傷そのものな
のだ。
唯一の家族である母親が仕事に出るのを余儀なくされ、クラウドは寂しさに耐えるのが精一杯だ
っただろうに。
仲睦まじい父親と母親。そして幼い頃から親しんできた使用人達に囲まれていた幼少時代とは正
反対の寂しい環境。
クラウドを溺愛した父親は、幼い息子に様々なモノや機会を惜しみなく与えてきたそうだ。
ピアノを教え、バイオリンを与え、たくさんのおもちゃに可愛らしい子犬も。
小さな家ではあったが、あそこにはクラウドの幸せが詰まっていたのだ。
淡く儚く全てが優しい。そんな幸せがあの時代には当たり前にあったのに。
そう想うとセフィロスはたまらなくなる。
クラウドを父親の分まで、それ以上にも愛してやりたいという衝動に駆られてしまうのだ。
こんなセンチメンタルは、クラウドと出会うまでは、無縁だったのに。
環境にも才能にも血筋にも恵まれすぎてきたセフィロスは、己自身のことにすら関心の持てない
男だったのだ。
ともかく14歳になったクラウドは、あるパーティで人形となっていた。
別にいかがわしい意味での人形ではなく、あくまでも少年の美貌を一種の芸術品として扱ってい
たものだった。生きている絵画とか彫刻とか、そういう意味でクラウドはあの場所にいたのだ。
それが当時のクラウドのアルバイトだったのだ。
そのパーティには他にも似たような"人形"はいくつかいたが、他の少年や少女や、豊満な女性
や美しい青年も目に入らない。
繊細な容姿を無関心で覆った少年を、一目でセフィロスは欲しいと感じる。
そう――初めてクラウドと会った時の気持ちをどう言い表せば良いのだろうか。
指先まで満たされる満足感と、同時に襲ってくる飢餓に似た少年への欲望と。
押さえきれなくなった感情そのままに少年に駆け寄って、その手をとる。
ピンク色の爪までが繊細な少年の手の体温に、セフィロスは真理を見た。
一度とった手を放すことなど出来ない。そのままセフィロスは少年の手を強引に引き続け、つい
には側におくことに成功。
そしてやっと少年の心までをも手にいれることが出来たのだと、セフィロスは自負している。
だが、そこでエンドマークがうたれたのではない。
セフィロスとクラウドとの本編は、これからなのだ。
恋人となった少年は、今でもセフィロスに初めて出会った時の感動と興奮を与えてくれる。
指先まで満たされていくと実感出来る満足感は、いつまでもセフィロスを軽く酔わせるのだ。
そして同時に襲ってくる飢餓感は、少年の金髪の一筋さえも飢えて求める。
だからこそ思うのだ。自分は少年に何を与えているのだろうか、と。
自問自答しても答えは出てこない。
金は与えた。住む場所も。人形だった少年に自由も与えた。
セフィロスのおかげでクラウドの母も今は普通に暮らしている。
彼女は快くクラウドをセフィロスに託してくれて、自らはこの国から出ていった。
寂しがらないようにと、仕事のほとんどにクラウドを同伴しているし、スケジュールもかなりゆ
ったりとしたものになっている。
でも――それで充分なのだろうか?
確かにクラウドはセフィロスに感謝してくれているだろう。
金銭面でも、生活面でも。
そこのところは素直に信じていられるが、セフィロスが問題としたいのはそこではない。
自分が少年から感じられる、満足感を飢餓感を、もしくはそれに匹敵するだけの何かを、自分は
クラウドに与えられているのだろうか。
クラウドは感じてくれているのだろうか。
その答えが知りたい。
まず、両手を高く掲げる。
頭上から降りてくる世界を、指揮棒を使い、オーケストラ一人一人に指し示し与えるのだ。
それは輝きでもあり、もっとも重苦しい悲哀にもなる。
だが演奏する曲はどれも、作曲家たちが己の内にある神と対話をして血肉を培い、芸術として昇
華させたものばかり。
その素晴らしさだけは違えようもない。
セフィロスの指揮者としての使命は、作曲家たちの芸術作品を、如何に己の血肉と混ぜ合わせて
具現化させ、その具現化させた世界をオーケストラに表現させるかである。
美しいだけでは物足りない。
哀切だけでは詰まらない。
現実に歩む人生とはドラマティックである。その現実のドラマに劣らないだけの、チープでは終
わらない喜怒哀楽を生み出すのだ。指揮棒を握るこの左手に込めて。
今回セフィロスはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体ともなる、ウィーン国立歌劇場管
弦楽団の指揮をする。
ウィーン国立歌劇場管弦楽団とは、その名称の指す通りウィーン国立歌劇場専属のオーケストラ
であった。定員は150名。六管編成となっている。
毎年9月1日から翌年6月30日までのシーズンに約300回のオペラバレエ公演を行う。
ちなみにウィーン・フィルハーモニーとの関係は密接であり、この国立歌劇場管弦楽団のメンバ
ーが自主運営団体としてウィーン・フィルハーモニーを組織して、各地で演奏活動を行っている
のである。
セフィロスが指揮をとるのは歌劇『イタリアのトルコ人』ロッシーニの作品だ。
主要人物は7人。トルコの王子。イタリア人妻。イタリア人夫。イタリア人妻の崇拝者。イタリ
ア人夫の友人である詩人。トルコ王子の以前の恋人。以前恋人だった女の友人と。
主にイタリア人夫婦とトルコ人の元恋人という、二組のカップルが織りなす恋模様の悲喜劇であ
る。
以前、そう、クラウドと出会うまでのセフィロスならば、この類のオペラの演奏は苦手であった。
批評家からも演奏家からも芳しい評価も得られず、正直指揮棒を振るっていても恋に纏わる悲喜
劇など退屈でしかなかったのだ。
確かにセフィロスの指揮は完璧だ。
作曲家の作り上げた譜面通りに始まって、そして終わってしまう。
しかし、ただそれだけ。
ある批評家からは「コンピューターの演奏と同じだ」という辛辣な批評を受けたこともあった。
だが、クラウドを得てからのセフィロスは違う。
セフィロスは理解したのだ。知識ではなく実際の体験として、知ったのだ。
傍目から見れば理解不可能であっても、恋の当事者からすれば恋人の眼差しひとつで一喜一憂す
るのが当然なのだと。
恋模様も、悲喜劇も、大いに結構。
なんといってもセフィロスは、すでに恋の悲喜劇の一員なのだ。
恋を自覚したセフィロスの指揮は劇的に変化する。
かれは恋の高貴さも、愚かしさも、何気ない日常を歌いあげる術さえ覚えたのだ。
完璧な演奏に加え、繊細で緻密でありながら、情感まで表現しきるセフィロスは、英雄とまで讃
えられるようになった。
リハーサルでの旋律の余韻が、大気に震えて溶けていった後、セフィロスが指示を出す前に、無
遠慮とも言える拍手が起こる。
拍手の持ち主は上流の特権階級にありがちな性質の持ち主らしい。
彼らは常に傅かれてきた。よって自分が場にそぐわないからと言って遠慮することもない。周囲
こそが自分に合わせるべきだと信じ込んでいる。
拍手の主は無作法な己の態度に気づくことなく、そのまま舞台へと近づいてくる。
「相変わらず、君はミューズに愛されているね」
褒め言葉ではあるが、真意は見えない。
相手の出方を窺い、対応する。そんな謎かけのような言い回しが、彼なのだ。
「ルーファウス、まだ練習中だ」
冷たいセフィロスの態度さえも気に留めない。彼はある意味正しい特権階級人なのだ。
ルーファウス・神羅というこの青年とセフィロスの付き合いは長い。
金髪碧眼というセフィロスの大切な恋人と同じ色味の持ち主でありながらも、ルーファウスとク
ラウドは決定的な違いだらけだ。
ルーファウスは髪の一筋から、駆け引きで出来ている。少なくともセフィロスはそう思っていた。
幼い頃からそうだった。父親同士がビジネスパートナーであり、ヨーロッパの上流階級にはあり
がちな数代前は縁続きであったこともあって、セフィロスとルーファウスは物心つく頃にはすで
に見知っていた。
己よりも年下のルーファウスだが、セフィロスは一度たりとも親愛をもって見たことはない。
嫌いではないが、好意もない。
セフィロスにとってのルーファウスとは、何重にも囲ったビロードのカーテンの奥から外界を窺
っている、そんな閉鎖的なイメージしかないのだから。
ルーファウスは言葉で、会話で、そして端正な容貌で、己の真意を隠す。
そんなルーファウスだが、ビジネスパートナーでもありまたパトロンの一人でもある為、これか
らも関わりは切れないのだろう。
今だってそうだ。自分が練習中に乱入してきたのにも関わらず、ルーファウスは当然のように空
いていたソファのひとつに座り込み、すっかりと居座る気でいる。
明確な声にこそしないが、楽団員から諦めのため息が漏れた。
ここで「後にしてくれ」とルーファウスを追い返してみても、なんにもならないだろうというの
は、セフィロスだって承知済みだ。
かといってルーファウスの前での練習など、すでに楽団員は彼のおかげで集中を切らしているし。
「休憩にしよう」
セフィロスはあっさりと無駄な苦労を放棄する。
直ぐさまセフィロスの意を受けたマネージャーが飛んできて、少し早いが一時間の休憩を伝えた。
セフィロスは式台から降りると、タオルを手に取った。
洗い立てのタオルは高価な品ではないが、清潔な匂いがする。
そこにクラウドの匂いを嗅ぎ取って、セフィロスは気を取り直す。
タオルを口元にあてて、家で帰りを待っていてくれているであろう恋人を思いだしていると、ル
ーファウスがこちらをじっと観察しているのに気づく。
「なんだ?」
「いいや…」
フッと下品になるかならないかギリギリの冷笑を浮かべ、
「そのタオルが随分とお気に入りなのかなあ、って」
まったく、人の神経を逆撫でする男だ。セフィロスは冷たく見下ろして、
「そんなくだらない話の為に練習を中断させたのか」
「中断なんてとんでもない。適度な休憩だろう、セフィロス」
足を組み替え肘をつく。
優雅な仕草だがセフィロスにとっては嫌味でしかない。
「用がないのならば帰れ」
「用ならあるよ。セフィロス、君の顔を見に来たのさ」
「バカらしい。それは用とは言わん」
やれやれ。
「セフィロス。君はいつも即物的だねえ」
「付き合っている人間の影響かな」
暗にクラウドを嘲る物言いに、セフィロスは容赦しない。
怒りのオーラが立ち上る。機敏に感じ取った周囲は、そそくさと別の部屋へと移動をしていった。
が、当のルーファウスは平然としたもの。
その様子が余計に苛立たしい。
「言いたいことがあるのならば、はっきりと言え」
「じゃあ、言わせてもらおうか――」
「ビビアン・リード嬢のお誘いを断ったんだって?」
「…」
いきなり登場してきた女の名前に、セフィロスは己の記憶を探った。
ああ、
「そんな女、確かにいたな」
「いたなじゃないよ。誘われたんだろ」
「くだらない誘いだ」
「君にとってはくだらなくても、リード嬢にとってはくだらなくなかったんだよ」
「くだらないに決まっているだろう――」
「俺には恋人がいる」
「恋人がいる男にパートナーになって欲しいなど」
「セフィロス。パーティでのパートナーの申し出なんてよくある話じゃないか」
「エスコートしてやって一曲でもダンスをしてやればいいだけだろう」
「それだけでないことはお前だって承知している筈だ。ルーファウス」
まあ、確かに。とルーファウスは気障な仕草で肩を竦めてみせる。
「リード嬢は君と親密な交際がしたかったのは確かだしね」
「はっきり言え――」
「あの女は俺を連れ歩きたかったんだ」
パーティや遊びだけではなく、ベッドの中までも。
社会的地位や血統、見た目が良い男と寝るのがステイタスだと、勘違いしているバカ女の一人だ
った。
以前なら退屈しのぎで相手をした可能性もあるが、今のセフィロスにとってステイタスだけを求
めて言い寄ってくる女はくだらなさすぎる。まともに対応などしていられないくらいに。
「良いじゃないか。別に」
ルーファウスの価値観ではそういう事は極当たり前なのだ。
「リード嬢は少なくとも若いし独身だ」
「家柄も良いし、縁続きになっても不足のない相手だよ」
もちろん、遊び相手にも。
「お前がそう思うのならば、お前が相手になってやるといい」
「彼女は君が良いそうだよ、セフィロス――」
ちらり、とルーファウスは練習の楽譜を見た。
「へえ、ロッシーニかい?」
楽譜を手にとってぱらりと捲りながら、
「そう言えば『イタリアのトルコ人』にはこんな歌があったよね」
「『たった一人のお方だけを愛するだなんて』」
第一幕目、イタリア人妻が歌うのだ。
たった一人のお方を愛するほど馬鹿げたことはありませんわ
退屈をもたらしこそすれ、楽しみをもたらしはいたしません
日常の日々の満足は。
蜜蜂も、そよ風も、小川も、いつも一本の花だけを愛してはいませんわ。
持ち前の才と移り気で私はそういう風に恋をしたいの、
私はそういう風に気を変えたいの。
「同じだよ、セフィロス」
「蜜蜂もそよ風も小川も、たった一本の花だけの為に存在しているのではない」
「君はもっと多くの花も知るべきだ」
「君にはそれだけの価値がある」
「そうは思わないかい――クラウド」
クラウド――の呼びかけに、セフィロスはハッと身を固くする。
右手の扉が開く。開けたのはクラウドだった。
「クラウド!?どうしてここに?」
「僕が連れてきたんだよ」
ルーファウスは立ち上がり、セフィロスの愛する少年をエスコートしてきた。
身体にピッタリしたシャツとジーンズ。家でくつろいでいた所をルーファウスに強引に連れてこ
られたのだろうと簡単に推測出来る。
強張った表情と、セフィロスに合わせない視線が、とても気掛かりだ。
――ルーファウスめ!
ルーファウスはクラウドを否定してはいない。が、決して肯定もしていないのだ。
クラウドがセフィロスの側にあるのは許そう。だが、クラウドだけを側に置く必要などないと、
ルーファウスは常に公言している。
「クラウド――セフィロスは偉大だ」
そうは思わないかな?
「彼や僕は特別なんだ」
蜜蜂でありそよ風であり小川である。
そのようにして愛を振りまくことが許されている特権の持ち主なのだ。
特権はあくまでも特権。許されているのはほんの選ばれた一部のみ。
セフィロスはその選ばれた偉大なる者なのだ。
「君はそのことを自覚するべきなんだよ」
「まあ、君には解らないかも知れないけれども――」
いや、失礼。
「君は父親の血だけは由緒があったよね」
「君のお父上は特権を有する一人だった」
クラウドの父はルーファウスのかなり近しい親族にあたるのだ。
もっともヨーロッパ上流階級とは、過去の因縁による複雑な政略結婚の結果、系図を紐解いてみ
れば誰しも姻戚関係にあるものなのだが。
「愚かにもたった一人の人を愛してしまったが」
――愚かだね。
「身の丈の合わないことをするから、悲劇で終わったんだよ」
クラウドの拳が血の気のないほど握りしめられているのを見て、セフィロスは我が胸が潰れそう
になる。
両親のことは、クラウドにとって鬼門だ。
彼は両親の愛によって生まれた。愛によって育まれ、幸せな幼年時代を送りもした。が、逆に父
親の死によって幸せは泡のように弾けてしまい、彼の手からはすり抜けてしまう。
俯いたままの表情を無くした顔。きつく握りしめられた拳。きつく結ばれた口元。
どれもがこんな場面でも、セフィロスを満たし、同時に飢えさせる。
可哀想とか、哀れみとか同情などを越えて、痛切に願う。
――どうにかしてやりたい。
クラウドの哀しみは全て自分が吸い取ってやりたい。我が事以上に胸が痛む。
この想いが愛ではなくて、なんだと言うのだろうか。
「セフィロス。花はクラウドだけじゃない」
「そもそも、クラウドは男だ。花にもなれない」
そうだろう。
「リード嬢だけでもない。花はたくさんある」
「いつかはセフィロス。君にもっとも相応しい花が現れるんだよ」
詩でも歌うように、ルーファウスは言い放つ。
彼はこの瞬間、勝ち誇っていた。己の正当性を示すことに酔っていた。
――ルーファウスは、やはりわかっていない。
歌劇『イタリアのトルコ人』では、一人の人を愛するのは愚かだと歌った人妻は、結局道化でし
かない恋の駆け引きに疲れ果てるのだ。
ルーファウスの主張する正当性とは、それだけのことに過ぎない。
彼が酔っている勝利など、無意味なものでしかないのだ。
セフィロスは勝ち誇るルーファウスを後目に、愛しい少年の元へと駆け寄った。
コンプレックスを抉られた恋人の前に跪く。
視線の高さを低くして、
「イタリア人妻フィオリッラは、トルコ人王子セリムとの恋に恋をしていたんだ」
退屈で裕福な美しい人妻は、刺激が欲しかったのだ。
とてもドラマティックな恋をしたかったのだ。ヒロインになりたかったのだ。
「だが結局、セリムは元の恋人のものとなり、フィオリッラは恋に恋することに疲れ果ててしま
う」
クライマックスは仮面舞踏会。そこで登場人物たちは仮面を被ることで己のアイデンティティー
のもろさを知るのだ。
「このオペラのラストはハッピーエンドだよ、クラウド」
そこで初めて、クラウドがセフィロスを見た。
「俺は蜜蜂でもそよ風でも小川でもない」
「ただの――男だ」
そして、
「クラウド。お前も花などではない」
「俺の大切な恋人だ」
きゅっと引き締められていた、クラウドの唇が縋るように動く。
セフィロスは綴られてくる言葉に全神経を傾けた。
「でも…オレじゃ公式な場所でのパートナーにはなれないし」
それもルーファウスが吹き込んだのだろう。
「なんだ。そんなことか――」
「お前ならばどこに連れていっても恥ずかしくはない」
「オレ、男だし。まだ子供だし…」
「男を生涯のパートナーとしているのは俺だけではないぞ」
「嘘!?」
「本当だ。現にルーファウスだって今のパートナーは男だ」
「え!?」
渋い顔でルーファウスはそっぽを向いた。
「もっともルーファウスは他の花でも遊んでいるがな」
それはルーファウスの問題で、セフィロスは口を出すつもりなどない。
「まだ納得出来ないのならば、女装でもするか」
「お前ならば、絶対美人になるぞ」
「美人になんてならないってばっ」
「いいや、そうだな。それがいい。次の機会にはクラウドに女装してもらおう」
「バカセフィ!」
あはは。と膨れる恋人の身体を抱きしめて、
「俺は母親がまだ元気なんだ。独身の男が母親をエスコートするのもよくあることだ」
つまり、
「俺はちっとも困ってなどいない」
「ルーファウスが言ったのは大きなお世話でしかない」
――気にするな。
それよりも、
――俺の恋人はお前しかないのだから。
跪いて抱きしめているから、セフィロスの顔はクラウドの胸に埋もれてしまっている。
しっかりと声にならなかった言葉は振動として、胸からちゃんと伝わってきた。
「クラウド。お前の母親は不幸だったと言っていたのか?」
「…ううん」
幸せだと。彼女はいつもクラウドの父親と巡り会えて、クラウドを生んで、とても幸せだと言っ
ていた。今もそうだ。悔いはない、と。
「死んだ父親もそうだったのだ」
「俺には解る」
なぜならば、
「俺もお前といて、幸せだからだ」
クラウドの父に負けないくらいに。
「お前はどうだ?」
問いかけの答えはまず行動だった。
クラウドの両手がセフィロスの頭を抱きしめてくる。
「…幸せだよ」
「聞こえないな」
「幸せだ」
「もっと大きな声で」
「幸せなんだよ」
「誰といて」
「セフィロスといて、幸せだ」
「本当に?」
「本当だよっ」
「そうか――」
――それは良かった。
セフィロスの銀糸を、クラウドの指が優しく乱す。
がたん。音を立ててルーファウスがソファから立ちあがった。
「人前なのにあからさまに睦みあうだなんて、下品だよ」
腹いせの嫌味など、セフィロスとクラウドにはもう聞こえない。
「失礼するよ。セフィロス」
そのまま出ていこうとしたルーファウスに、セフィロスがクラウドの胸元から呼び止めて、
「マネージャーに俺はもう帰ると伝えておいてくれ」
メッセンジャー代わりにルーファウスを使う。
プライドの塊たるルーファウスだが、今回は自分に分が悪いと理解しているようだ。
「解ったよ…」
こうして一人の登場人物は去った。
残ったのは恋人二人きり。
「セフィロス…仕事いいの?」
「どうせルーファウスがやってきた時点で、集中は切れていたんだ。問題はない」
「クラウド――」
「お前にはお前の考えがあるのは当然だ」
だが、
「俺のお前への想いだけは、どうか疑わないでくれ」
「…疑うなんて、俺――」
――不安なんだ。
不安でしょうがない。
そうはっきりと露わに言ってしまえるだけの強さを、まだクラウドは持ち合わせていないのだ。
そんなクラウドの不器用さはある意味欠点とも言えるだろう。
ただセフィロスはそうとは考えていない。
繊細さも不器用さも、クラウドを構成する大切な要素なのだから。
セフィロスは立ちあがると恋人へと手を差し出す。
そして一言、
「家に帰ろう、クラウド」
小さく頷いたクラウドが、差し出された手を取る。
その時のはにかんだ笑顔を、セフィロスは心から美しいと感じた。
END
07年10月より11月まで「B子の次回作は何?アンケート」を取らせていただきました。
その結果。連載シリーズと僅差で「はれくい」が一位になりました。
少しでも楽しんでいただけたらありがたいです。また期間中は沢山のお答えありがとうございました。